親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

自分が救われないことを正当化する親鸞会講師部員と電話して思ったこと

前回のエントリーに関連して、最近親鸞会の支部長(講師部員)と電話で話す機会があり、そこで思ったことを書きます。

電話をしていると、その支部長は唐突にこんなことを言ってきました。

  1. 君は信心決定したとか言っているようだけど、それは思い込みではないのか?
  2. 三業で信心の有無は計れない
  3. 親鸞聖人が、信行両座の諍論をされたときも、信の座に入ったのは法然上人のお弟子380人余りの中で4人だった。


それぞれについて、思ったことを書きます。
1は、個人の感想ですからそう思う人がいることについては、どうこう私が言う筋合いのことではありません。
2については、言っていることは一見正しいのですが、親鸞会講師部員の言動を考えると矛盾しています。
 なぜなら「私は信心決定した」と高森会長が言うことは信用し、高森会長以外の人間、特に退会者が言うと絶対に認めないからです。退会者が信心決定したといってもそれを否定する根拠に「三業で信心の有無は計れない」としながらも、高森会長が信心決定していると思う根拠は思いっきり三業で判断しています。

そもそも親鸞会講師部員が高森会長が信心決定していると考える根拠は、「みんながそう言っているから」とか「自信一杯話をしているから」いう程度のものです。まして、講師部員自身が信心決定したわけでもなく、きちんとした真宗教学の理解もないのですからなにも説得力がありません。


3については、親鸞聖人の書かれたものには登場しないものです。また、これは前回のエントリーで紹介した「蓮如上人の法座の参加者でも信を獲た人は一人か二人だった」と同じ理屈で出している話です。
仮に、それらのことを根拠にあげたとして、以下の理屈は成り立たないのは誰でも判ります。

  1. あなたは信心決定したと言っているが、そんなことはあるはずがない。
  2. 信行両座の諍論で、信の座に入ったのは僅かに4人だった。
  3. だから、あなたは信心決定していない。


自分を含めて信心決定したと言っている人がほとんどいない状況を、自己正当化するために「信の座に入った人は僅かに4人だったから自分がまだ救われてなくても不思議はない」とでも考えているのでしょう。ただ、そんなことを日ごろ考えているのに加えて高森会長が最近そのような話をしていることは容易に想像できます。私の過去の経験から、講師部員が突然聞かれもしない何かを言い出すのは高森会長がそれについて講師部員に話をした時がほとんどだからです。また、このような話をして「法然上人でさえお弟子で救われた人は4人だった、まして高森会長では・・・」と考えるのは、善知識だのみの考えですし、そもそも法然上人と高森会長を比べるのは法然上人に失礼です。


しかし、退会者が信心決定してようがしていまいが、問題は自分自身が信心決定していないことを「そんな人が周りにいないから」とか「過去にも少なかったから」と正当化しているところです。そんな心で、親鸞会に留まり続ける意味は何でしょうか?会館を全国に建てて、高森会長を喜ばせる為にその支部長は生きているのでしょうか?仮に全国に会館が建っても、あなたの後生の一大事は相変わらず何も解決していません。毎日会員や会員で無い人に「平生業成」と言っているのなら、まず自分が救われるよう阿弥陀仏の本願をまともに聞くことをお勧めします。命はいつ尽きるか分からないのは、その支部長も人に話をしている筈です。


僅かな人しか救えない本願ならば、阿弥陀仏の本願がウソになります。五劫思惟されたのは、あまねく人を浄土往生させる為です。なぜ、ほとんどの人が救われないと考えるようになったのかよくよく考えて見てください。