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親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

書評12「なぜ生きる2」(1万年堂出版 高森顕徹著)より「信心は大悲の願船に乗った風光」ではありません。

「なぜ生きる2」(1万年堂出版 高森顕徹著)を読んで思ったことを書いています。
以前に書いたものはこちらを参照下さい。(これまでの「なぜ生きる2」記事一覧

なぜ生きる 2

なぜ生きる 2

今回は、

4章 四海みな一味平等の宣言
大悲の願船に乗ずれば、凡夫も聖者も、罪人も極悪人も、どんな人も光明の広域に浮かぶ

を読んで気がついたことを書きます。


この章は高森顕徹会長(宗教法人浄土真宗親鸞会)の話の特徴が、よくでています。その特徴とは、信心を獲ると「なにかの世界」が見えてくるとし、信心を「さとりの境地」であるかのように説明するところです。

時を超え所を問わず、大悲の願船に乗ずれば、どんな人でも、この平等の広海に浮かぶのである。
龍樹、天親のような高位の菩薩をはじめ、曇鸞道綽、善導、源信法然などの七高僧や、親鸞覚如蓮如などの善知識方と等しくなるのだ。
つねに無上の幸せの風が吹き、もろもろの禍の波が喜びと転ずる、大悲の願船に乗じた風光は変わらないのである。
(略…信心同異の諍論について書いた後)
師匠と弟子の見る風光(信心)が、一味になるなど想定外のことだった。
(略)
「私(法然)の乗じた大悲の願船の風光(信心)と異なるのは、違う船の風光(信心)だからであろう。
 大悲の願船と異なる船の風光(信心)は、各人の智恵や才能、学問や経験でつくった風光(信心)だから、絶対に同じ風光(信心)にはならないのである。9
(なぜ生きる2 P116-P118)

まず最初に、「信心」と「信心を獲たらどうなるか。ものの見方が変わるのか」の二つを、混同して書いているのが分かると思います。親鸞聖人がいわれる他力信心とは、本願を聞いて疑い無いこと(無疑心)であって、そうなったらどんな風光が見えるかということではありません。


信心=風光?

しかし、上記の引用箇所だけでなく、何度もこの章には「風光(信心)」と書いて有り「風光=信心」となっています。この前の章では、現生十種の利益について書いてあるので、その言葉を使えば「信心=現生十種の利益」と言っているのと同じことです。

以前のエントリーにも書きましたが、信心と信心の利益(ここでは現生十種の利益)は別物です。

金剛の真心を獲得すれば、横に五趣八難の道を超え、かならず現生に十種の益を獲。(教行信証信巻 末)

http://goo.gl/feVr1a

金剛の真心とここで言われているのは、真実信心(信心)のことです。信心を獲得すれば、現生十種の利益を獲るのであって、信心獲得=現生十種の利益ではありません。

例えて言えば、病気が治ったらをこんな生活になったというとき、「病気の完治=完治したあとの生活」ではないのと同じことです。


その二つを混同した上で、なぜ生きる2の文章が書かれているので、「龍樹、天親のような高位の菩薩をはじめ、曇鸞道綽、善導、源信法然などの七高僧や、親鸞覚如蓮如などの善知識方と等しくなるのだ。」と読めば、親鸞聖人が見られた世界を親鸞聖人と全く同じように誰でも見ることができるのだと思ってしまいます。実際私も、親鸞会にいるころはそのように思っていました。


しかしそれは、信心と信心の利益の混同であり、信心と信心獲得の上での味わいの混同です。
この二つを混同すると、例えば信心獲得した人は、誰でも浄土論を書かれた天親菩薩が、なぜそのような文章を書かれたのかが即座に分かるかのような誤解をしてしまいます。


こう書くと、親鸞会会員の方で「そんなことは分かっている。智恵や学問が同じになるとは思っていない、信心が同じになるのだ」と言われる方があると思います。しかし、「では同じになる信心とはどんなものですか?」と尋ねると「それはなってみないと分からない」と答える人が大多数だと思います。


確かに「なってみないと分からない」というのもその通りですが、それ以前に「信心と信心の利益」を混同しているのが親鸞会会員です。ですから、「それでも信心獲得したら何か変わるだろう。あらゆるものが輝いて見えるだろう」と考えています。それは、高森顕徹会長がそのように会員に話をしているからです。そのため、親鸞会高森顕徹会長の無謬性、絶対性の根拠として会員が考えているのは「高森先生は信心獲得しているから」が最大のものです。

高森顕徹会長があえて信心と信心の利益を混同させようとするたった一つの理由

それは自身の権威を高めるためです。それ以外にはありません。
一例を挙げると、高森会長の法話に初めて参加した人が挙げる感想で多いのが「なぜ高森先生という人はあんなに偉そうなんですか?また、アシスタントの講師部・特専部の人はなぜ会長に頭が上がらないのですか?」というものです。その理由が、前述した「信心と信心の利益の混同」です。その混同があるために、親鸞会講師部員は、「信心を獲た人は、決定的になにか違うものを持っている。自分に信心がない以上は絶対にわからない風光を会長は見ているのだ」と固く信じています。また、それを利用して高森会長は、自身の権威づけに利用しています。


信心そのものは、本願を聞いて疑い無いことであってそれ以上でも以下でもありません。ただ今お前を助けるの仰せを聞いて、ただ今助かると聞き入れているだけのことです。その上での念仏生活で法を聞かせていただくことで、ものの見え方も段々とお育てに預かって変わっていきます。しかしそれは、信心獲得の上での味わいでありますから七高僧親鸞聖人と同一になるものではありません。法については同一でもそれ以外は違います。


それを混同すると、信心獲得した人は特別だと思い、親鸞聖人、蓮如上人の再来が高森顕徹会長であるという親鸞会の特徴である善知識だのみになってしまいます。
新聞広告からこの本を読んだ全く浄土真宗の事前情報がない人は、善知識だのみの予備軍になっていることだと思います。もし、それに当てはまる方でこのエントリーを読まれた方は、伝統教団発行の書籍も必ず読んで比較することを強くお勧めします。そして、親鸞会会員の方は、高森顕徹は信心獲得しているから完全無欠の善知識なのだという考えが教義的に全くの誤解であることをよくよく知って頂きたいと思います。