親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

30年以上本願寺派へ事実無根の批判をしていた親鸞会(親鸞会公式サイトを見て)

前回のエントリー本願寺派門主の著作を読んで勝手に勝利宣言をする親鸞会(親鸞会機関紙顕真平成26年4月号より) - 親鸞会を脱会した人(したい人)へ
に書いたことが、親鸞会公式サイトにも掲載されていました。
本願寺門主「最後のメッセージ」

今回、門主自身が、その誤解を翻して「弥陀の本願がまことであるから」と断定されている意義は、極めて大きい。(http://www.shinrankai.or.jp/b/gendai/20140415hongwanjilastmessage.htm 
より)

会員むけに書く機関紙にこっそり書くならまだしも、公式サイトに掲載するようでは親鸞会弘宣局はますますまわりが見えてこなくなったようです。


親鸞会はつねに、以下の漫画のコマにあるようなことを本願寺派が伝えていると会員に伝えてきました。
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しかし、これは間違いです。本願寺派から出ている本を読めば間違いだとわかることです。そこで今回は親鸞会が上記の公式サイトでも取り上げている本から紹介します。

いまを生かされて

いまを生かされて

この「いまを生かされて」から引用します。

とくに1980年(昭和59年)に「教書」を発布して、門主としての基本姿勢を文書で示せたことは、大変重要なできごとです。
(略)
そうした世相を前に、私は、自らの欲望に満ちた姿と行く末を問う「現生正定聚」と「平生業成」の教えを訴えて行かねばならないと考え、「教書」を著したのです。
浄土に往生するのはこの世の縁が尽きたときですが、これらの教えは「往生が定まるのは、すでにこの世にある時である」と示されています。往生がいま定まることにより、阿弥陀如来の大きなお慈悲に包まれた私、阿弥陀如来の願いにより、他のいのちとつながっている私を感じることができるのです。(P9 はじめにー退任のあいさつに代えて)

ここだけ読んでも、親鸞会の「本願寺は弥陀の救いは死んでからといっている」がウソであることがわかります。すくなくとも、この教書がでたのが1980年ですから30年以上事実無根の批判をしていたのが親鸞会です。

このエントリーを読まれた会員のかたはこれを機会に「いまを生かされて」や親鸞会以外の書籍を読んでみてください。


また、この親鸞会公式サイトの記事を読んでみると、私が以前エントリーに書いた通りのことをやっているなと改めて思いました。

...そうなったとき、親鸞会はその本を目を皿にして読んで「歎異抄をひらく」に関連するような箇所を探し出して騒ぐ。または、「歎異抄をひらく」の批判を避けた、それは「歎異抄をひらく」が完璧だからだ!!と騒ぐのでしょう。(本願寺を批判する親鸞会は、本願寺から相手にされていないことを知っている件 - 親鸞会を脱会した人(したい人)へより)