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親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

「後生に驚きが立たない」と悩んでいる人は、実は「後生に驚きが立っている」その理由は?

前回のエントリーを書いて、その後思ったことを書きます。

親鸞会でいう「後生に驚きが立った人」は、切迫した無常や、深刻な罪悪を感じる状態ばかりがクローズアップされています。ですからその面だけで言えば「後生に驚きが立った人」はほとんどいません。そのため、親鸞会用語の一つに「頭では後生の一大事が理解出来ましたが、本当の意味ではまだ分かっていません」というのがあります。この用語も、「自分の心が如何に切実なレベルで無常と罪悪を感じるか」に焦点を当てた結果です。


しかし、親鸞会会員の方によく考えて頂きたいのは、以下の2点です。

  1. 親鸞会でいう「後生の一大事に驚いた人」はどういう行動をとるのか?
  2. なぜそのような行動を取るのか?


順番に考えてみたいと思います。

1.親鸞会でいう「後生の一大事に驚いた人」はどういう行動をとるのか?

辞表を書くというのは手段であって、目的ではありません。親鸞会定義でいっても、後生の一大事に驚いた人は真剣に聞法します。言い換えれば、後生の一大事に驚いた人は持っている財産の全てを親鸞会にお布施したりしません。また、朝から晩までアニメ上映会のチラシを配ったりしません。夜も寝ずに勤行をする親鸞会会員はいないでしょう。とにかく、阿弥陀仏の本願とそのいわれを聞くようになります。

2なぜそのような行動を取るのか?

なぜ、親鸞会で強力に推進されているお布施や勧誘活動に邁進しないのでしょうか?それは、お布施をどれだけしたところで、それで助からないと知っているからです。では、なにによって助かるのでしょうか?それは、自分の力ではなく阿弥陀仏の本願力一つで助かるのです。


ですから、親鸞会でいう「後生に驚きが立った人」は自分の力では助からず、阿弥陀仏の本願力でなければ助からないと知っている人ということになります。それが原点となって聞法をしていることになります。

「後生に驚きが立たない」と悩んでいる人も実は同じ

親鸞会でいう「後生に驚きが立たない」と悩んでいる人も、いろいろ自分でこうしたら助かるだろうかと種々努力した結果、「自分の力ではどうにもならない」という状況になっている人です。これ以上、親鸞会で活動を続けたとしても何も変わらないのではと思っている状態です。


「自分の力ではどうにもならない」という点でいえば、親鸞会でいう「後生に驚きが立たない」と悩んでいる人も「後生に驚きが立った人」も同じです。


現在も親鸞会に所属している人でも「お布施をしたら助かる」「チラシをまいたら助かる」と思っている人はいないでしょう。ならばなぜ、自分の力で助かると思っていないのに南無阿弥陀仏をたのまないのでしょうか?それには「驚きが立たないと」などと、自分の心理状態が切実なものにならなければ阿弥陀仏は助けて下さらないと思うのが疑いです。阿弥陀仏の本願にはそんなことは一つも願っておられません。


現在親鸞会で「後生に驚きが立たない」と悩んでいる人がすべきことは、ムリを承知でお布施や活動をすることではありません。「後生に驚きが立った人」と同じく、阿弥陀仏の仰せを聞く以外にありません。ただ今救われます。

南無阿弥陀仏のいわれが、親鸞会で聞けないと思われたら、他で聞いて見てください。仏法は足で聞けと、親鸞会でも言っていたと記憶しています。