親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

「親鸞会には救われている人がいません」(親鸞会機関誌・顕真平成26年3月号より)

顕真平成26年3月号を読みました。簡単に内容を紹介し、気になったところについて書きます。

苦悩の群生海に飛び込み
迷妄斬り開く剣士に 第2回

われら親鸞学徒は、あまたの群賊悪獣を切り裂く利剣を持つ。
今こそ、剣を磨いて起つ秋だ。(顕真平成26年3月号P32見出し)

いつも通り見出しは勇ましいのですが、本文を読むと見出しとの違いに脱力しました。

f:id:yamamoya:20140325164207p:plain

◎ある人
 親鸞会には救われている者が、いないのではないか。(1)
親鸞学徒
 じゃ、どこに救われた人が多くいる所があるのか。堂々といえるか。

私は今回のこの記事は親鸞会講師部、および会員の正直な気持ちがよく現れていると感じました。そもそも親鸞会で活動をしていて、ある人がいう「親鸞会には救われている者が、いないのではないか」との批判を面と向かって受けることは無いと言ってもいいことです。なぜなら、このようなことを親鸞会に言えるのは、親鸞会に在籍したことがある人に限られるからです。おそらく、会員からそのような意見が出ているのだと思います。


少なくとも講師部に関しては、ただの一人も真実信心を獲得をしている人がいないことは、元講師部の私が保証します。もしいると言うのなら、機関誌でも行事の弁論大会・体験発表でも出てこられたらいいと思います。大体の機関誌はチェックしていますが、私が除名になったあともそのような記事を読んだ記憶がありません。



また、この「顕正一口メモ」は全く「顕正」していません。なぜなら「顕正」は「正しいことを明らかにする」ことだからです。その点で「親鸞会には救われている者が、いないのではないか」と突っ込まれると、それは「正しい」ので本来ならば「その通りです」と言うしかありません。にもかかわらず、この顕正一口メモでは「じゃ、どこに救われた人が多くいる所があるのか」と論点ずらしをしています。


本来ならば「親鸞会には救われている者が、いないのではないか」の批判に対して、答えは二つしかありません。

  1. はい、親鸞会には救われている者がいません。
  2. いいえ、親鸞会には救われている者がいます。

しかし、親鸞会の回答は「じゃ、どこに救われた人が多くいる所があるのか。堂々といえるか」です。これでは回答をごまかしているどころか、親鸞会には救われた人がいない認めているだけです。



言い換えると

◎ある人
 親鸞会には救われている者が、いないのではないか。(1)
親鸞学徒
 (その通り!親鸞会には救われている者は一人もいない!)じゃ、どこに救われた人が多くいる所があるのか。堂々といえるか。〔そもそも救われた人なんて滅多にいるはずないだろ!!親鸞会講師部にも一人もいないのだから〕

ということです。



しかも、この「ある人」が真実信心を獲得した人の場合は成り立たない話です。その場合「親鸞学徒」がこのように切り返しても以下のようになるからです。

◎ある人
 ここにおりますが…
親鸞学徒
 お、おう……

しかし、こんなことを言う「親鸞学徒」さんがこのまま引き下がるとは思えません。そこで、この先を想定してみるとこのようになるはずです。

親鸞学徒
 一人いるから何だというのだ!私は、「救われた人が多くいる所」を尋ねたのだ。
◎ある人
 真宗の繁昌とはなにかをご存知ないようですね。

親鸞学徒
 お、おう……

こういうやり取りになるはずだと考えた時、思い出したのは妙好人として有名な三河のお園さんの話です。

お園さんの話

以下は、「信者めぐり 三田老人物語」からの抜粋です。(改行、括弧はこちらで変えました)

三州味浜の御老院(普賢寺西脇善桂師)のお示し下さるには、
「お前もう三年早う来たらお園に、合わせてやるのであった。おしいことをした。私も始めて遇うた時、あまりに法の聞きようが甘いで『田原辺は私も行ったことがあるが、あまり仏法繁昌でない筈じゃが、、お前の所は繁昌しているとみえるな』」
と話したら
「繁昌とも繁昌ともそれはそれは繁昌しております」
「そうであるか、そないに繁昌しておるかや」
「ハイ人は知らんがこの私一人は…… 」
「そのお前の一人の繁昌とは如何なる繁昌かや。」
「ハイ朝から晩まで、晩から朝まで、あるはないは、足るは足らないは三毒やら五欲やら、それはそれは繁昌しております。」
「それがお前の繁昌かや」
「ハイこれさえあったらなー」
と答えた。オレもやられたわや。(信者めぐり 三田老人物語)
洗心書房なら定価で入手可能かも)


これは、西脇善桂師がお園とはじめて会った時のことを語ったものです。西脇善桂師がお園に「お前の所は仏法繁昌しているか?」と尋ねたところ、お園は「私一人は繁昌しております」と答えました。
自分一人がなぜ繁昌なのかといえば、蓮如上人の御一代記聞書にこのようなお言葉があります。

一 一宗の繁昌と申すは、人のおほくあつまり、威のおほきなることにてはなく候ふ。一人なりとも、人の信をとるが、一宗の繁昌に候ふ。しかれば、「専修正行の繁昌は遺弟の念力より成ず」(報恩講私記)とあそばされおかれ候ふ。(御一代記聞書_浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版120)

http://goo.gl/2vcygq

一人でも信を取るのが真宗の繁昌です。また、真宗とは阿弥陀仏の本願ですから、私が信をとってこその真宗の繁昌です。人数が多くても、私が信をえていないなら繁昌しているとはいいません。

信心抜きの繁昌を目指す親鸞会(それは一宗の繁昌ではありません)

今回の顕真の記事から透けて見えてくるのは、親鸞会会員で本当に信心獲得できると思っている人は今やほとんどいないと言うことです。仮に信心獲得した人が多くいる場所があったとしても、底にいる人は「人工的自力信心」であって他力の信心ではないと記事には書いてあります。

「ここには信心決定したした人がたくさんいるぞ」
などと平気で口にするのは、法然上人や親鸞聖人、蓮如上人よりも勝れた方か、人工的自力の信心で、他力信心を知られない人なのでしょう。(顕真平成26年3月号 P33より)

親鸞会の機関誌によれば、本願寺派大谷派だけでなく、正しい真宗を伝える団体は存在しないことになっています。唯一、正しく伝えているのは親鸞会であり、高森顕徹会長と主張しています。


確かに、その主張からすれば、唯一真実の真宗を伝える団体に救われたと言う人がいないに等しいのですから、親鸞会以外で救われている人などいないと考えるのも分からなくもありません。親鸞会理論で言えば、最も獲信に近いはずの講師部員に救われたという人がいないのですからなおさらです。


そこで親鸞会(高森会長)は、「人のおほくあつまり、威のおほきなること」で自らの正当性を証明しようとしています。
毎回の機関誌には、各地に会館ができたことを宣伝し、会長の著書がどれだけ売れたかを報じています。
f:id:yamamoya:20140325165527p:plainもっとも、最近の機関誌は会館の記事が中心で「人のおほくあつまり」は見たことがありません。参詣者であふれていると報じていたのも今は昔のようです。さすがに会員向けの「顕正新聞」に「二千畳は毎回満堂で人が溢れた」と書けないようです。そこで「人のおほくあつまり」が主張出来ないならば、せめて「威のおほきなること」を打ち出して「親鸞会は繁昌している」「それは親鸞会が真実を伝えているからだ」と強弁をしているのが現状です。


「私一人」が救われない「繁昌」は「繁昌」ではない。

この記事を読まれた会員と元会員の方に言いたいことは、貴方が「信じている」ことが正しかったとしても、貴方自身が阿弥陀仏の救いに本当の意味であっていない現実とどう向き合うつもりかということです。こんな「顕正一口メモ」を覚えてよしんば相手を絶句させる事ができたとして、それが「一宗の繁昌」ですか?
貴方は「自分が正しい」と証明するために仏法を聞いているのではありません。ただ今救う南無阿弥陀仏に救われるために聞いている筈です。


「人のおほくあつまり、威のおほきなること」に一生を捧げるのは阿弥陀仏の願いではありません。ただ今救われてください。