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親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

「雑行=自力の心でやる諸善」がなぜ間違いか?そう主張するのは高森顕徹会長(宗教法人親鸞会・なぜ生きる・歎異抄をひらく著者)

前回のエントリー「雑行について、正直まだよくわかっていません。」「雑行は自力で簡単に捨てられるものですか?」(こねこさんのコメントより) - 親鸞会を脱会した人(したい人)へ
にコメントを頂きました。それについて書きます。テーマはタイトルにも書きました「雑行=自力の心でやる諸善はなぜ間違いか?」です。

玉見

ちょっと私にも質問させてください。

もし、念仏を勧めていれば蓮如上人が教えられた雑行は、単なる自力ではなく、「自力の心でやる諸善」になるってことですか?

http://shinrankaidakkai.hatenablog.com/entry/2014/01/12/062526#comment-12921228815716380082

「雑行」は、「正行」に対する言葉です。ですから、「正行」を何にするかによって変わるということです。

以下、表にするとこのようになります。

正行 雑行
浄土三部経にある行 それ以外の経典にある行
五正行 五雑行
念仏 念仏以外の行(諸善)
本願に選び取られた行 本願に選び捨てられた行
他力信心 自力心

正行と雑行を対照するとこのような定義になります。
そこで、以前のエントリーにも紹介しました「なぜ生きる2」に玉見さんがいわれる雑行の定義(自力の心でやる諸善=雑行)が「重要なキーワード」として掲載されています。

なぜ生きる 2

なぜ生きる 2

f:id:yamamoya:20131227160724p:plainP275

しかし、ここに紹介した「重要なキーワード」は間違いです。
なぜなら、前述した表に書きましたように「正行」と「雑行」は対になるように定義しないとなりたたない言葉です。
仮に、「自力の心でやる諸善=雑行」とするならば、「正行」の定義はどうなるでしょうか。候補は二つになります。

  1. 正行=自力の心で称える念仏
  2. 正行=他力の心でやる諸善

(1)については、自力念仏ですから、それを阿弥陀仏が選び取られたというのはあり得ない話で却下です。
(2)についても、基本的に「正行」とは「往生行」ですから、「他力の心でやる諸善」(これ自体もすでに日本語として成立しませんが)で往生するとなると、とどのつまりは「諸善」を行う心が自力か他力かによって往生出来るかどうかが決まるということになります。そのようなおかしな話は、真宗教義として成立しません。あくまでも「信心正因」であり、「念仏成仏これ真宗」ですから、この「重要なキーワード」は全くのでたらめということになります。

玉見さんの質問に対する結論

蓮如上人が「念仏=正行」とされている部分については、「念仏以外の諸善=雑行」となります。しかし、「自力の心でやる諸善=雑行」とした場合は、対義語である「正行」の定義がなりたちません。よって「自力の心でやる諸善=雑行」という「雑行の定義」は成立しないことになります。

こねこさんの質問について

こねこ
(略)
さっと読んだだけでもまだ分からないところが出てきたものですから、、、

えっと、頭、整理するため少しだけすみません、、、

法然上人、親鸞聖人が教えられた雑行=自力で信前に捨てれる

蓮如上人が教えられた雑行=他力で信の一念に廃る
    (自力で信前に捨てることは出来ない)

という理解でよかったですよね。

 つまり、蓮如上人が教えられた雑行の部分だけが飛雲さんと違う、ということですね。
 飛雲さんは、蓮如上人の領解文の雑行も、一念で廃らないし、雑行は心じゃないっていってますから、、、

 別に違っていてもいいんです。
 全部、飛雲さんと宮田さんの意見が一致していないといけないっていうことはないですから、、、

 また、コメントさせてもらいますね。

これについては、前述の玉見さんの質問に対して書いた通りです。
例えば、「20願の同行は雑行を捨てている」と書いた場合の、正行と雑行の定義は以下のようになります。

正行 雑行
念仏 念仏以外の行(諸善)

なぜならば、20願の同行は念仏一行に励んでいるわけですから、諸行が往生行だと思っていませんし、そのように行じてもいません。


そこで、親鸞聖人は、念仏一行を称えている人の中にも「自力の念仏」と「他力の念仏」の人がいると教えられています。「行」そのものを「念仏」とした場合には、正行と雑行の定義は以下のようになります。

正行 雑行
他力念仏 自力念仏


そこで蓮如上人の「正行」「雑行」はこのようになっている部分が多いです。

正行 雑行
他力信心 自力心

これについては前回も書きましたが、御文章全部が以下のようになっているとはいえません。
これについては、被害者さんのコメントにもある通りです。

一例を挙げますと、以下のものがあります。

これによりて一心一向に弥陀一仏の悲願に帰して、ふかくたのみたてまつりて、もろもろの雑行を修する心をすて、また諸神・諸仏に追従申す心をもみなうちすてて、さて弥陀如来と申すは、かかるわれらごときのあさましき女人のためにおこしたまへる本願なれば、まことに仏智の不思議と信じて、わが身はわろきいたづらものなりとおもひつめて、ふかく如来に帰入する心をもつべし。(御文章2帖目1通)

http://goo.gl/FOCpTk

ここでは「もろもろの雑行を修する心をすて」といわれているので、「雑行」は「行」として書かれています。その内容をいえば「諸神・諸仏に追従申す」ことですから、阿弥陀仏以外の諸仏・諸神に救いを求めることを「雑行」と言われています。これは「行」をいわれています。もちろん、「心」をいえば、阿弥陀仏以外の諸仏や菩薩に救いを求める心を捨てなさいと言われていますが、ここではあくまで「行」として言われています。


ここでいわれる「雑行」も、「自力の心でやる諸善」とはなりません。なぜなら、「自力の心で」という時点で、善を回向する対象は阿弥陀仏であって諸仏や諸神ではないからです。(自力の心=助正間雑の心という意味では間違い)

これについては、コメントされた「被害者さん」と同意見です。

被害者
(略)
蓮如上人の雑行については、蓮如上人御自身がしっかり[定義されて仰っていないので不明な所はあります。

でも、「雑行雑修自力の心」と3点セットで仰っているところもありますから、「雑行」だけを仰ったときには、「雑行雑修自力の心」を省略されたとみるべきかな。
雑行自体の意味は親鸞聖人と同じでも、雑修自力の心をも代弁されていると考えても良いと思いますよ。

どっちにしても、高森会長の説は間違いですけどね。

こねこさんのコメントへのまとめ

  1. 法然上人、親鸞聖人が教えられた雑行=自力で信前に捨てれる」(こねこさんのコメント)→こういう「雑行」は「何によって往生が決定するか」という点で「諸善を励んでも往生できない。念仏一行で往生するのだ」と思った人は信前に雑行を捨てます。ただここに「自力で」という言葉を入れるのはムリがある言葉です。なぜならこねこさんのこのコメントでは「雑行=自力」と成っているからです。自力を「信前(自力)」で捨てられる訳はありません。ここは「雑行」の定義が違うということです。
  2. 蓮如上人が教えられた雑行=他力で信の一念に廃る」(自力で信前に捨てることは出来ない・雑行を「雑行雑修自力の心」と同義語〔自力心〕とされた)の表現をされた箇所は御文章にあります。しかし、その説をとるならば「自力の善でやる諸善=雑行」の等式はなりたちません。なぜならば「諸善(行)が一念で廃る」というのは日本語としても成り立ちません。「信の一念に賜る」とするなら「正行=他力信心」であり「雑行雑修自力の心=自力心」となるからです。

※ただ、蓮如上人の御文章に出てくる「雑行」が「全部自力心」ではありません。

高森顕徹会長(宗教法人浄土真宗親鸞会会長・著作「なぜ生きる」「なぜ生きる2」「歎異抄をひらく」)のいう「雑行」の間違いまとめ

  1. 「自力の心でやる諸善=雑行」は、本来成り立たない
  2. 「諸善=雑行」または「「自力心=雑行」はなりたつけれども、「自力の心でやる諸善=雑行」はありえない。
  3. なぜなら「雑行」に対する言葉は「正行」であり、「雑行=自力の心でやる諸善」とすると「正行=他力の心でやる諸善(?)」「正行=自力の心でやる念仏(→これでは往生浄土はできない)」から。
  4. ちなみに「雑行=自力の心でやる諸善」とした場合は「正行=他力の信心」とはならない。
  5. 「雑行」という言葉がそもそも「正行」の対義語である以上は、「行」か「自力心」とどちらかにしかならないのに「自力の心でやる諸善=雑行」とするところにそもそもの矛盾をきたす原因がある。

親鸞会に所属していた頃に感じた疑問を振り返る。

私が親鸞会に在籍していたころ、高森顕徹会長の教学講義で、上記に書いた「雑行雑修自力の心」についての講義がありました。親鸞会発行の「教学聖典(全9冊)」の中から大事なところを話をすると言った第一回目の講義がそれでした。その後、「雑行雑修自力の心」についての講義は、十数回続きました(月一回なので一年以上)ただ、講義が続けば続くほど、参加者は混乱していたことを覚えています。
それは、「雑行を捨てなければ助からない。真実信心とは言えない」と言っている高森会長の話からすれば、どう考えても「雑行=自力心」なのですが、高森会長は「雑行は『行』だから『心』のことではない」と強弁するかでした。
しかし、「行」が一念で廃るというのは、論理的にも物理的にもあり得ない話です。そこで、当時の私も「わけがわからないよ」と思いましたし、多くの会員もそう思っていたと思います。


今回改めて整理をしてみると、その疑問はまったく当たり前のことだったのだとわかりました。
「雑行」を「行」とするか「自力心」とするかによって、ものの言い方は変わるのですが、高森会長は御文章にある「雑行=自力心」とする部分をもってきながら、その一方で「雑行=行(諸善)」であると話をしたわけです。同じ「雑行」という言葉を使いながら、別の定義(自力心)を混在させて、「自力心を捨てたければ、善をせよ」とトンデモ説を会員に押し付けているのが現状です。


玉見さん、こねこさんコメントについてエントリーを書きましたが、不審な点があればお尋ね下さい。
またこのエントリーを読まれた現役会員、元会員の方で不審があればお尋ね下さい。よろしくお願いいたします。