親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

顕真平成25年11月号法友通信を読んで思ったこと(宗教法人浄土真宗親鸞会結成55周年法友通信より)

宗教法人浄土真宗親鸞会高森顕徹会長)の機関誌・顕真平成25年11月号を読みました。

ここ最近の親鸞会機関紙は全国各地の会館建立の記事ばかりで教義的な話題は、以前に比べても相当減っています。今回紹介する顕真平成25年11月号も、半分は関西西宮会館(兵庫県西宮市)に関する記事です。もう半分は、結成55周年・報恩講の記事ですが、高森会長の話の内容は法友通信に僅かにあるだけです。それより、高森光春講師局長の講義(海外学徒のつどい)の方が講義の要旨として記事が書かれている状態です。高森講師局長の講義内容は、元会員の人なら聞いたことがあるような聞法の覚悟の話なので特に言及するところはありません。



今回は、法友通信を読んで気がついたことを書きます。

55周年法友通信 真宗の正統 一貫するご教導
仏願の生起・本末を聞く
結成55周年では、親鸞聖人の主著「教行信証」信巻のご文(左ページ参照)について、2日間にわたってご教導頂きました。
高森先生に寄せられたお手紙から、ご講演を振り返りましょう。(Q)
浄土真宗親鸞会機関誌顕真H25年11月号P12より)

左ページ参照の図は、以下のものです。
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仏願の生起・本末に疑い晴れるまで
講師部 O
(略)
では、何を聞くのか。それは仏願の生起・本末であり、「疑心有ること無し」が決勝点とお聞きしました。生起とは、十方衆生の見捨てた煩悩具足、心口各異の私であり、徹底して心を見つめよ、とのご教導です。
(略)
極悪人の自己が分からず、うぬぼれ強い我々を、無条件の救いまで導くために、弥陀がご方便なされていることもお聞きしました。
仏願の生起・本末に疑い晴れた世界まで、自他共に進ませて頂きます。(略)

まず、図の本ー18願 末ー19願・20願というのは間違いです。この仏願の生起本末について、親鸞会が「異端」と批判する本願寺派ではどう定義づけているかを、浄土真宗辞典から紹介します。

ぶつがんのしょうきほんまつ 仏願の生起本末
阿弥陀仏の名号のいわれ。仏願の生起とは、阿弥陀仏が本願を起こした理由、すなわち自らの力では決して迷いの世界より出ることのできない衆生を救うために、本願が起こされたことをいう。仏願の本末とは、仏願の因果という意味で、法蔵菩薩の発願修行を本(因)といい、その願行が満足しさとりを成就し、名号となって十方衆生を済度しつつあることを末(果)という。(浄土真宗聖典より)

浄土真宗辞典

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現役会員の人が読まれても、浄土真宗聖典の定義の方が納得できるのではないかと思います。この意味で言えば、本を18願とすると、末は18願成就した結果の名号・南無阿弥陀仏であり、現在南無阿弥陀仏が私を救うために働いておられることという意味になります。決して、19願、20願のことではありません。


次に、

生起とは、十方衆生の見捨てた煩悩具足、心口各異の私であり、徹底して心を見つめよ、とのご教導です。

とありますが、徹底して心を見つめよと親鸞聖人が仰ったとしても、それは「悪を見つめよ」「悪を自覚せよ」との意味ではありません。「自分の分斉を知れ」の意味です。


濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。 (教行信証化土巻_要門釈 結勧)

http://goo.gl/cH39mN

これは教行信証化土巻に、19願について書かれたあとに、結論として仰っている箇所です。自分の心を見つめよう、悪を知ろう、そして阿弥陀仏の救いに近づこうと考えている人に仰ったものと思ってください。
ここで言われているのは「おのれが能を思量せよ」です。「自分の能力をよくよく知りなさいよ」とのことです。この法友通信の人に向けて言われたとするならば「悪を見つめられるようなものかどうかよくよく考えて見なさい。」さらに言えば、「本気で信じているのか?」と言われています。


この法友通信に紹介されている講師部員Oさんは私もよく知っている人です。顕真学院でも同時期にいました。本人に向けて私がいうならばこうなります。
親鸞会に入会してから20年以上心を見つめてきた貴方なら、もうそれが無理な話だということは気がついているでしょう。できない道を、できないと思いながら進むのは空しいことです。自分の分斉をよく知って、南無阿弥陀仏にただちにまかせなさい」


悪が悪と見つめられるような人はまだ善人です。そのような善悪ができるできないという話しではなく、阿弥陀仏の本願は「自分の力で迷いの世界を出られない者」の為に建てられたものです。善人だろうが、悪人だろうが「自分の力で迷いの世界を出られない」という点では同じです。仮に、悪を自覚できたとしても、それで浄土往生できるのではありません。また、悪を自覚しなければ助けないという南無阿弥陀仏なら、全ての人を救うことはできません。そのように「悪を自覚できるかできなか」「自惚れ心が自覚できるかできないか」という、自らの行いの善悪にこだわるのは本願の生起本末に全く合わないことを考えているにすぎません。なぜならば、善悪にこだわるということは、「善人の方が助かる」「悪人の方が助かる」と阿弥陀仏の平等の慈悲に勝手に差別をつけているからです。阿弥陀仏は平等の慈悲をもってすべての人を救うと本願を建てられたのですから、自分の側でそのようにお慈悲に差別をつけるのが本願を疑っているといいます。


特別、「悪を自覚」しなくても「自惚れ心を自覚」しなくても、現在のそのままが本願を疑っているのです。


次に、法友通信の文章から言えば

極悪人の自己が分からず、うぬぼれ強い我々を、無条件の救いまで導くために、弥陀がご方便なされていることもお聞きしました。
仏願の生起・本末に疑い晴れた世界まで、自他共に進ませて頂きます。(略)(法友通信より)

とあるようなことはありません。
もし上記の理屈で言えば、「極悪人の自己が分からず、自惚れづよい我々」を救う為に阿弥陀仏がされたことは「善をせよ(19願)」「自力念仏を称えよ(20願)」ということになります。それならば「無条件の救いのために○○せよ」という条件付きの救いになります。


もう少し加えて書くと、この手紙に限らずほとんどの法友通信は「仏願の生起・本末に疑い晴れた世界まで、自他共に進ませて頂きます」と同様の表現があります。この「まで」というのが、親鸞会会員の信心をよく表しています。最も、そのように思うのは高森顕徹会長が常にそのように話をしているからです。

「疑い晴れた世界まで」はなぜ間違いか?

この「○○世界まで」の「まで」というのは、救われた世界が「ここではないどこか」であることを示す言葉です。少なくとも現在地にないので「まで」という表現を使っています。これは、私も過去親鸞会にいた時に考えていたことなのでよく判ります。親鸞会では、高森会長の話では、阿弥陀仏の救いは常に「未来」であって「いま」ではありません。「ここ」ではなく「どこか」の救いです。心理学的に言えば、向かって左というのは未来を指し示す動作だそうです。例えば、「少年よ大志を抱け」と言ったクラーク博士の銅像は、向かって左を指さしています。

f:id:yamamoya:20131205174904j:plainhttp://www.hitsujigaoka.jp/amusements/images/clark_photo_side.jpg

高森顕徹会長の話や動作も、同じように参詣者に向かって左を差して「ここまで進め」と話をします。それを聞いた人は、救いは「未来」にあると思うのは仕方のない話だと思います。事実、この法友通信の講師部員Oさんは「仏願の生起・本末に疑い晴れた世界まで、自他共に進ませて頂きます」と書いています。そのように、阿弥陀仏に救われた世界、または信心を「まで」と、対象化するのは、19願、20願の行者の考え方です。


しかし、そのような救いをどこか遠くに対象化する考えでは絶対に救われないと親鸞聖人は戒められています。それが、教行信証化土巻の真門釈(20願の解説)の最後の部分です。

悲しきかな、垢障の凡愚、無際よりこのかた助正間雑し、定散心雑するがゆゑに、出離その期なし。みづから流転輪廻を度るに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。まことに傷嗟すべし、深く悲歎すべし。おほよそ大小聖人、一切善人、本願の嘉号をもつておのれが善根とするがゆゑに、信を生ずることあたはず、仏智を了らず。かの因を建立せることを了知することあたはざるゆゑに、報土に入ることなきなり。 (教行信証化土巻_真門釈_真門決釈より)
現代文
悲しいことに、煩悩にまみれた愚かな凡夫は、はかり知れない昔から、迷いの世界を離れることがない。果てしなく迷いの世界を生れ変り死に変りし続けていることを考えると、限りなく長い時を経ても、本願力に身をまかせ、信心の大海にはいることはできないのである。まことに悲しむべきことであり、深く嘆くべきことである。大乗や小乗の聖者たちも、またすべての善人も、本願の名号を自分の功徳として称えるから、他力の信心を得ることができず、仏の智慧のはたらきを知ることがない。すなわち阿弥陀仏が浄土に往生する因を設けられたことを知ることができないので、真実報土に往生することがないのである。

http://goo.gl/8rVVc

20願の行者は、19願の行者と同様に阿弥陀仏の救いをどこか遠くに設定して、それにむかって「進もう」と考えています。しかし、阿弥陀仏の救いは阿弥陀仏の方からただ今ここに働いているのですから、そのような考えは仏版の生起本末に反するものです。


そのような人に対して親鸞聖人は「微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし」と言われています。平たく言えば、阿弥陀仏の救いに向かって「進む」者は「絶対に救われない者だ」との縛めです。


阿弥陀仏の救いに向かって「進む」のは、阿弥陀仏が私を「待っている」という前提の考えです。しかし、それは間違いです。阿弥陀仏は、南無阿弥陀仏となって私に現在働き掛けておられます。そのお働きを「本願力回向」といいます。その本願力回向のお働きによって、ただ今私が救われるのです。


最後にOさんに向けて書きます。


Oさんは、親鸞会に入会して20年以上経ったわけですが、一体いつ救われるつもりでしょうか?たくさんいる先輩講師が救われたあとだと思っているのでしょうか?そんな風に、阿弥陀仏の救いを「遠慮」していることがそもそも阿弥陀仏を悲しませていることをよくよく知ってください。私は、Oさんについては一日も早く阿弥陀仏の救いにあって頂きたいと思っています。「なぜ生きる」より、よくよく「御文章」を拝読してください。私が書いたこともいつか伝わるのではないかと思います。それまで、命があることを念じています。