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親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

脱会者を「恩知らず」という親鸞会・高森会長に思うこと

前回のエントリーで、時間の都合で書けなかった部分を追記として書きます。

仏教で言う「恩」は、語源からいうと「作られた」という意味からくるものです。なにかがあったとしてもそれは「私が作った、為した」というものではないという立場から出てくる言葉です。よって、自分がしたものはなにもないという前提にたつので「恵まれる」とか「感謝」という意味になってきます。そういった自己否定を出発点とするので「おかげさま」の言葉も使われるようになりました。


それに対して儒教思想の「恩」は上から下への道徳で、上が作ったものを下が与えられて感謝するというものです。自分が一方的に下ならばいいのですが、自分が上の立場になると「私が作った」「私が正しい」という前提になるので、相手が礼をいっても「あたりまえ」となってしまいます。なぜなら、自分自身が「正しく」「完全であり」「賢い」という自己肯定を出発点としているからです。その前提では「おかげさま」という言葉はどうしてもでてきません。


仮に上の立場に立った人間が、そのような前提でものを考えると、「恩を売る」ことはあっても、誰かの意見を聞き入れるということはありません。高森会長の「ご恩」というのは、まさに「恩を売りつける」の「恩」であって、どれだけ会員が感謝しても会長が「おかげさまで」ということはただの一度もないでしょう。「あたりまえだ」と思うだけです。どれだけ「自分は愚かだ」と高森会長が言ったとしても(自分の法名に愚の字をつけていても)それは本心ではありません。その証拠に、少しでも高森会長に意見をしたり逆らった人間は、親鸞会から次々と追い出されていきました。それはすべて「自分は正しい」という自己肯定の場に立っているからです。そういう人間は、自らに敵対する人間の意見に耳を貸すことはありません。反対に腹をたて、この世のなかで「自分以外全て敵」となり争いは絶えません。


それに対して「おかげさま」という言葉は、自らが「悪」「不完全」「愚者」の立場を前提とします。
親鸞聖人の立場は、自らを愚禿と名乗られたことからも分かるように、自らを「悪」「不完全」「愚者」とされています。また、蓮如上人も同じです。そのように、自らが「悪」「不完全」「愚者」である自己否定の立場では、争いは基本的に起きません。すべてが「おかげさま」となれば、晩年の吉川英治氏が言ったという「我以外みな師」という言葉にも表れてきます。


しかし、この自己否定を前提といっても、それは「自分は悪だ」と自分自身を追い詰めることではありません。自分で自分を追い詰めたとしても、追い詰める「自分B」が追い詰められる「自分A」より正しいという前提の話ですから、「自分A」が完全に否定されたとしても、「正しい自分B」が残ります。それをまた「もっと正しい自分C」が(以下略)となり、とどのつまり自分で自分を否定することは人間にはできないことです。自分の目で目をみるようなものです。


そのような自己否定というのは、あくまでも南無阿弥陀仏の法の前においてされるものです。どれだけ逃げても、逆らってもどうにも頭を上げることができない南無阿弥陀仏を前にしたところに「おかげさま」という言葉は出てきます。


そういう意味で私も高森会長に「ご恩」は感じませんが、「おかげさま」という意味での感謝の気持ちはあります。以前、親鸞会を辞める際に「君は会長先生のご恩を感じないのか?!」と問い詰められた時に、なんとも答えようがありませんでした。それはその問いそのものが「恩愛」と「恩」を混同した問いだからです。
その意味で、親鸞会の人が脱会者を「恩知らず」というのは見当違いの批判ということになります。


「高森先生からご恩を受けている」とか「恩知らずとののしられるのが嫌だ」と思って脱会を躊躇される方がもしこのエントリーを読まれていたら、全く心配は無用です。彼らの批判は全く「恩」違いだからです。気にせず脱会されたらいいです。