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親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

親鸞会でよく聞く「高森先生のご恩に…云々」に感じる違和感について考える

親鸞会では、毎年報恩講が行われていました。私が最後に参加したのは、親鸞会結成50周年大会でした。それから考えると今年は55周年大会があったとのことで、月日が経つのは早いものだと思います。

報恩講」とは、文字通り「恩に報いる」と書きますが、親鸞聖人が恩徳讃で仰った「恩」と、親鸞会でよく使われる「ご恩」(主に高森会長のご恩)は同じ「恩」でも意味が違います。そこで今回は親鸞聖人が恩徳讃で言われる「恩」と、親鸞会でよくつかわれる「ご恩」の違いについて書きます。

「おかげさま」と「あたりまえ」

結論から先に書きますと、親鸞聖人が恩徳讃で言われる「恩」は「おかげさま(で)」の意味です。それに対して、親鸞会の「ご恩」は「あたりまえ(だ)」の意味です。

それらの違いは同じ「恩」でもなぜ起きるのかを以下に書いていきます。

仏教での恩

おん 恩
(1)めぐみ、恩恵などの意→四恩→報恩
(2)煩悩のことをいう。→おんない(恩愛)
浄土真宗辞典より)

大きく分けるとこの二つです。しかし、この二つは大きく意味が異なります。なぜ異なるかといえば、元々インドで使われていた語源の異なる言葉を、中国語に訳する際に同じ「恩」という言葉を使ったからです。

(1)の意味で使われている恩は「つくられた、為された、行われた、成就された、準備された等」の意味を持つ言葉(krta)を語源とするものです。そこで、浄土真宗辞典でも「めぐみ、恩恵」と意味が書かれています。そこには「自分で○○した」という自己主張はありません。恵まれた、なされたものだという立場に立つ言葉ですから「自分が」という我は全く否定されている前提の言葉となります。その意味で「おかげさま」と浄土真宗ではよく使われてきた言葉となっています。

それに対して(2)煩悩(恩愛)と言われるものも「恩」といわれます。親鸞会で使われる「恩(ご恩、高森先生のご恩云々)」はこちらの意味です。親鸞聖人が「恩愛はなはだたちがたく」と言われたものもこちらにあたります。この恩愛で使われる恩はtrsnaで語源が(1)と異なります。こちらは、儒教思想や道徳でいう恩と意味は同じものです。いわゆる「恩に着る、きせる」と一般に使われるものです。日本社会で一般に使われる「恩」はこちらがほとんどです。

おんない 恩愛
父母・親族等に対する世俗的な情愛のこと。生死流転の根本的な原因とされる。

そもそも儒教の道徳はタテの道徳と言われます。主君から臣下、主人から従者、親から子、師匠と弟子という上下関係を重んじ、その上で下から上に対する道義を教えたものです。ですから、主君が臣下にどうすべきか、親が子にどう接するべきかという話はなく、臣下は主君に対してどうあるべきか、子供は親にどうあるべきか、弟子は師匠にどうあるべきかを教えるものです。そのため、封建制度社会では広く受け入れられ日本では江戸時代に武士を中心に広まり、日本社会に浸透していきました。


この儒教道徳においては、「恩」を受けているのだから、臣下が主君に忠義を尽くすのが「あたりまえ」、子が親に孝行するのは「あたりまえ」となっていきます。下から上へのあたり前はあっても、上から下への当たり前というものはありません。

仏教での恩(四恩)について

そこで、仏教でいわれる恩は大きく分けると上記にあげた二つになります。それをもう少し分けると四恩といわれて、四つに分類されています。

しおん 四恩
4種の恩恵。4種の内容は経論によって種々に説かれるが、『心地観経』では、父母の恩・衆生の恩・国王の恩・三宝の恩の4種、『正法念経』では、母の恩・父の恩・如来大悲の恩・説法法師の恩の4種を挙げている。

仏教全体では、この四つをいいますが、そのうち父母の恩、衆生の恩、国王の恩は、儒教にもふくまれているものです。三宝の恩については、仏教にはあっても儒教道徳にはふくまれていないものです。

しかし、仏教で言う「恩」とは自分という立場を立てずに恵まれた、与えられたことをいうものであって、儒教のそれとはやはりことなるものです。もちろん、父母の恩、衆生の恩、国王の恩といった儒教的な恩もすべて包んだ上での恩ということを言われています。

とはいえ、儒教的な「恩」は上の立場のものは正しく、下は不完全であり従うという上下関係からいうものです。自らが下の立場にあるときは、一見仏教で言う恩と同じように感じられるかも知れませんが、しかし自分が上の立場にあるときは自らが『正しく」、下がこうすることを「あたりまえ」とする主張となっていきます。それこそが、親鸞会で「高森会長のご恩」という言葉に感じる違和感の正体です。

「恩徳讃」と「高森先生のご恩」の「恩」違いの正体は

先に書きましたが、親鸞聖人が恩徳讃でいわれる「恩」は「おかげさまで」の恩です。法を恵まれたことに対する「おかげさま」の気持ちをいわれたものです。それに対して、「高森先生のご恩」と親鸞会で使われるのは「高森先生が正しいのだから、不完全な会員はそれに対して感謝をするのが『あたりまえ』」「高森先生が正義なのだから、不完全な会員はそれに従うのが『あたりまえ』」という文脈で常に語られています。同じ恩でも意味が違うので、会員の中でもこの「会長先生のご恩に今こそおこたえするときだ!」の言説に違和感を感じる人は多いと思います。


その違和感が一番表面化したのが、私が参加した親鸞会結成50周年記念大会の時のことでした。この50周年大会を機に親鸞会を辞めたという人は、私の知る限りでも少なくはありません。その原因は、先に挙げた「ご恩違い」に対する不満からです。


以前話をした元会員は、その時の怒りを以下のように語っておられました。
元会員「最初に支部長から誘いを受けた時は、私も報恩講だから行ってみようかと考えていました。ところが、その後支部長から『高森先生の50年間のご恩に報いる大会です。是非参詣してください』と言われて私は腹が立ちました。
 だから、支部長にその時言ったのです。『報恩講は、阿弥陀さま、親鸞聖人へのご恩でないんですか。なんで高森先生のご恩返しで行かなければならないんですか。おまけに、行事のポスターのどこにも親鸞聖人の報恩講だと書いてないじゃないですか。そんなのは浄土真宗としておかしい!』
  それから会をやめました。」

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50周年大会ポスター(親鸞会機関誌顕真平成20年12月号より)

この年の50周年大会は親鸞聖人報恩講をかねているはずですが、ポスターからみてわかるように「親鸞会50周年」としか書いてありません。また、この年は機関紙も高森会長50年の歩みといった特集を1年間かけてやり、会の雰囲気も「高森先生のご恩に報いるために、なんとしても正本堂を満堂にしよう」「高森先生のご恩に報いるためにF館を建てよう」「高森先生のご恩に報いるためにダムを造ろう」*1と完全に「親鸞会」ではなく「高森会」といった状況でした。


その時会を辞めていった人たちの感じた「おかしい」という感覚は正常だったと思います。同じ「恩」でも「おかげさま」と「あたりまえ」では全く意味が違います。


これについては、もう少し補足で書きたいところもあるので、また次のエントリーに書きます。

以下、次のエントリー

脱会者を「恩知らず」という親鸞会・高森会長に思うこと - 親鸞会を脱会した人(したい人)へ

*1:ダム建設は50周年の翌年でした。コメント欄で教えていただきました。