親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

「親鸞は阿弥陀仏に救われたぞー!(親鸞会・高森顕徹会長の正信偈最初の二行の解説)が間違いである2つの理由(その2)

「親鸞は阿弥陀仏に救われたぞー!(親鸞会・高森顕徹会長の正信偈最初の二行の解説)が間違いである2つの理由(その1) - 親鸞会を脱会した人(したい人)への続きです。

今回は、(2)「よりたのむ所は仏因(法)であって、仏体(阿弥陀仏という仏)は仏因ではないから」について書きます。

(2)「よりたのむ所は仏因(法)であって、仏体(阿弥陀仏という仏)は仏因ではないから」

この理由は、「阿弥陀仏に救われたぞー(仏体所帰)」は、私が仏に成る(成仏)の因とはならないからです。阿弥陀仏は、本願を建てられるにあたって五劫の間思惟し兆載永劫の行をされて阿弥陀仏となられました。その阿弥陀仏となられた上でのお徳を、私が成仏する因として私にさし向けられています。それを「南無阿弥陀仏の回向」と親鸞聖人はご和讃で言われています。これは、南無阿弥陀仏が、浄土真実の行であり、選択本願の行であることをいわれたものです。


その行が私の成仏する「因」となることは、親鸞聖人は尊号真像銘文に言われています。

「言阿弥陀仏者」と申すは、「即是其行」となり、即是其行はこれすなはち法蔵菩薩の選択本願なりとしるべしとなり、安養浄土の正定の業因なりとのたまへるこころなり。(尊号真像銘文_浄土真宗聖典―註釈版P656)

http://goo.gl/ipoFVw

南無阿弥陀仏の「阿弥陀仏」はすなわちその行であり、私が浄土往生定まる業因であるといわれています。


阿弥陀仏は、自らが五劫思惟され兆載永劫された願行の結果仏になられましたが、その仏になられたお徳を、私が成仏する因行となされました。
そのことを、お釈迦さまは大無量寿経に以下のように言われています。

大荘厳をもつて衆行を具足し、もろもろの衆生をして功徳を成就せしむ。(大無量寿経_上_浄土真宗聖典―註釈版P26)
現代文:その功徳と智慧のもとにさまざまな修行をして、すべての人々に功徳を与えたのである。

http://goo.gl/lj2MpO

仏教の目的は成仏ですから、阿弥陀仏はその功徳を私に向かって往生の行、成仏の行として与えられています。よって、南無阿弥陀仏は私が往生浄土、成仏の行です。


そのことを、親鸞聖人は教行信証行巻に、六字を解説されて以下のように言われています。

発願回向といふは、如来すでに発願して衆生の行を回施したまふの心なり。
即是其行といふは、すなはち選択本願これなり。必得往生といふは、不退の位に至ることを獲ることを彰すなり。(教行信証行巻_浄土真宗聖典―註釈版P170)

現代文:「発願回向」とは、阿弥陀仏が、衆生の願いに先立って、久遠のむかしに衆生を救済しようという大悲の願いを発し、衆生に往生の行を施し与えてくださる仏心をいいます。「即是其行」とは、如来が発願し回向されたその行が、選択本願において選び定められたものであることを表しています。

「即是其行」とは、ここでは南無阿弥陀仏の「阿弥陀仏」についての解釈です。「阿弥陀仏」の四字は衆生の行であり、選択本願によって選び取られたものであるといわれています。


ですから、「阿弥陀仏」の四字とはいっても「南無阿弥陀仏」の六字のこととして解説をされています。この南無阿弥陀仏の六字が、私が往生浄土する業因となり、信の一念に発願回向として与えられる行ですから、必ず浄土往生する身に定まります。


また、上記のご文で「如来すでに発願して」といわれています。「すでに」といわれているのは、私が願うに先だって、願を起こされ阿弥陀仏となられた時のことをいわれています。そのときに、六字の名号が成就しています。その名号には、私を浄土に往生させるお働きも、それを私に与える働きも全ておさまっています。私がお願いしてから、初めて助けてくださるというものではありません。

仏体所帰では、浄土往生もできないし仏になれない。仏因なくして仏果はない。

これについては、三宝という言葉を使って説明をしたいと思います。

さんぽう 三宝 仏教徒として帰依し供養すべき三つの宝。すなわち仏(さとりを開いた人)・法(その教え)・僧(その教えをうけてさとりをめざす集団)
浄土真宗辞典

浄土真宗でいえば「仏宝」は阿弥陀仏になります。「法宝」は名号であり、またそれを教えられた大無量寿経、教行信証になります。「僧宝」は、いわゆる七高僧を始めとした阿弥陀仏の本願を正しく伝えられた方々とそれを聞く人々の集まりをいいます。


この三宝のなかで、仏宝が最も尊いに違いはありませんが、仏それ自体が私の仏因とはなりません。それは、お釈迦さまの時代を考えて見ればよくわかることです。お釈迦さまの説かれた「法」にその当時の人はさとりを開いていったのであって、お釈迦さまそのものによってさとりを開いた人はありません。
これは「仏宝」が阿弥陀仏であっても同じことです。阿弥陀仏自体が私の仏因になるのではなく、阿弥陀仏の法が私の仏因となります。


阿弥陀仏(法蔵菩薩)の五劫思惟も、兆載永劫の修行も、ただ私が仏に成るための因(仏因)である法宝(名号)を成就するためにです。本願からいえば、十方衆生を往生浄土させ仏にするために五劫思惟・兆載永劫の行をされたのは、全ての人を仏にする法宝を成就するためといえます。その法宝とは、南無阿弥陀仏の名号です。


それを大無量寿経上巻に阿弥陀仏(法蔵菩薩)は以下のように説かれています。

衆のために法蔵を開きて、広く功徳の宝を施せん。(大無量寿経上巻_重誓偈_浄土真宗聖典―註釈版P25)

ここで「功徳の宝」といわれているのは、南無阿弥陀仏の六字名号のことです。これが、私にとっての往生成仏の因である名号のことです。

「まかぬタネは生えぬ」なら、浄土往生即成仏のタネは何か?

親鸞会高森顕徹会長は、よく「因果の道理」の話をします。「まかぬタネは生えない 蒔いたタネは必ずはえる。これには万に一つ、億に一つも例外はない」と繰り返して話をしているので、現役会員の人はよく知っておられると思います。


いわゆる「地獄行きのタネ」を持っている人は、「地獄へ行く」という結果を受けます。また、「浄土往生のタネ」を持っている人は、浄土往生することができます。それは、阿弥陀仏といえども曲げることはできないことです。もし、それを曲げることができるならば,阿弥陀仏の本願が成就したその瞬間に十方衆生は全て浄土往生し、仏になることができます。しかし、そうならないのは、仏といえども因果を曲げることはできないからです。また、実際に私たちはその因果の道理のなかに生きています。そこから外れて生きるということは凡夫にはありえないことです。


そういう意味で、「地獄行きの者」が地獄へ行かないようになるためには「地獄行きの因」を消滅することができなければありえないことです。また、浄土往生し、仏になるならば、浄土往生する因、成仏の因がなければありえないことです。


しかし、そのような「因」を私は自ら作ることができません。そこで、阿弥陀仏(法蔵菩薩)が五劫思惟し、兆載永劫の行をされ、その結果である功徳を私に回向することで、私が浄土往生し成仏する因をうることができるのです。弥陀回向の法である南無阿弥陀仏の名号が、私の往生成仏の因となります。よって、たのむところは、南無阿弥陀仏の法であって仏体ではありません。


阿弥陀仏という仏様が目の前に現れて「お前の罪は許すぞー!」というような救いは、キリスト教の神であって阿弥陀仏の本願による救いではありません。仮に「許す」といわれところで、自因自果の道理は曲げることはできません。悪因悪果 自因自果とならないためには、その「悪因」「自因」を消すことが必要です。それなし「悪果」「自果」が消えるとなれば、因果の道理にはずれた「奇跡」のようなものといわざるをえません。そんな救いが阿弥陀仏の救いであり、浄土真宗の救いであるというのであれば、宗旨替えをしなければなりません。


しかし、実際に親鸞会の会員は多かれ少なかれそのように思っている人が多いというのが私の実感です。つらくても、必死で頑張っていればある日阿弥陀さまが目の前にあらわれて「そのままじゃぞー」「ただですくうぞー」(ここいうのは罪を許すの意として会員は理解しています)と、言われて「私は『許されたのだ』」と思うのが信心だと思っています。そんなのは、聞其名号信心歓喜の信心とは異なります。そんな信心が欲しいのならば、キリスト教やその他の宗教に看板をかえるべきで、いやしくも「宗教法人 浄土真宗親鸞会」と名乗るべきではありません。