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親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

「親鸞会的三願転入」が破綻している理由を、仏体所帰から見てみる

前回のエントリーに関連して書きます。
親鸞会的三願転入」とは、親鸞会会員(元会員)が、高森顕徹会長から聞いてきた話のことです。それはどういうものかといえば、「阿弥陀仏の第十九願に誓われている通り、善を実行し、その善が間に合わなかったと知らされたものが、念仏に目が向き、第二十願に入る。そして、自力念仏も称えられない私であったと知らされたものが、第十八願によって救われる」というものです。


この理屈によって、親鸞会会員は「全ての人はまず十九願に誓われたとおり『修諸功徳(善の実行)』をしなければ「信仰が進まない(二十願にも進めないし、まして十八願に救われることはない)」と固く信じています。


今まで「親鸞会的三願転入」については何度か書いてきました。今回はいわゆる「横の線」は本当につながっているのか?という点について書きます。

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(画像は、親鸞会機関紙_顕正新聞平成25年10月1日号より)
親鸞会的三願転入」では、常に上記の図を使って高森会長が話をしています。そこでは「何を実行するか」が常に問題にされており、「何によって救われるか」はほとんど問題にしていません。漠然と「十八願に向かって進む」道が横の線であり、十九願では「修諸功徳」で進む、二十願では「自力念仏で進む」、そうやって横の線を進んでいくとゴール(十八願)にたどり着くという理解をしているのが親鸞会会員です。


しかし、阿弥陀仏の十九願は、以下のように説かれています。

たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、菩提心を発し、もろもろの功徳を修して、至心発願してわが国に生ぜんと欲せん。寿終るときに臨んで、たとひ大衆と囲繞してその人の前に現ぜずは、正覚を取らじ。(無量寿経 上 浄土真宗聖典―註釈版P18)

http://goo.gl/D4vKZE

この十九願で誓われていることは「寿終るときに臨んで、たとひ大衆と囲繞してその人の前に現ぜずは」ということで、臨終に「阿弥陀仏(仏体)」が諸仏菩薩(大衆)とともに、迎えに来る(来迎)を誓われています。


つまり、阿弥陀仏という仏様(仏体)による救いを求めて、諸々の功徳を収めるというのが十九願です。しかし、十八願の救いはそれとは異なります。十八願の救いは本願成就文にも「聞其名号信心歓喜」とあるように、名号による救いであり、名号をたのんだことを信心といわれます。ですから、十九願の通りに実行すると、親鸞会的にいうゴール(十八願)とは向かうところが違うので「横の線」のように直線的につながっているものではありません。十九願では、阿弥陀仏という仏(仏体)の来迎を目的に善をしますが、十八願は名号を聞き受ける救いです。名号による救いにあうために、まず仏体の来迎を求めよということは阿弥陀仏も誓われていないことです。もちろん、親鸞聖人はそのようなことを教えられていません。仏体の来迎に向かう道を進んでいたら、いつのまにか名号による救いの道に出ていたという話はありません。むしろ、臨終来迎の道は本願ではないから早く「別の道」(十八願)の乗り換えなさいと教えられています。


親鸞会的三願転入では、スタートが十九願なのでゴールも「阿弥陀如来(仏体)の来迎」としか思えません。実際私も「救われる」とはそのようなものかと思っていました。しかし、こう書くと「そんなことは思っていないし、高森会長からも聞いたことがない」という人もあると思います。それでも「横の線を進んでいったら、ある日『なにか』が起きる」「『なにか』がやってくる」という救いを想像していれば全く同じことです。十九願に「仏体の来迎」とあるのと言葉が少々異なっても同じことを想像しているにすぎません。


それは間違いでした。いわゆる「ゴール地点」が異なるものを、あたかも一直線につながっているかのように話をしているのが高森会長です。阿弥陀仏の十八願の救いを、あたかも十九願と同一または、連続性のあるもののように教え、会員を十九願に止めているのですから、55年会員を続けようが、60年会員を続けようが、十八願の教えに会うことはありません。よくよく親鸞聖人の教えられたことを聞いていただきたいと思います。