親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

親鸞会の「曽無一善の者と知らせて救う」本願は本当か?(顕真平成25年8月号より)

f:id:yamamoya:20130908054655p:plain顕真平成25年8月号を読みました。以下に思ったことを書きます。
今回は、「法友通信・6/16大導師以上座談会 弥陀の見抜かれた人間の姿『一生造悪』と『雑毒の善』」より紹介します。

阿弥陀仏は、全人類を「一生造悪」「曾無一善」と見抜かれています。一方、人間のやる善は、毒の雑じった「雑毒の善」だと説かれています。
これらは、どのような意味なのでしょうか。
大導師以上座談会のお礼状で振り返りましょう。

雑毒の善でも尊い仏縁に
無駄は一つもない
 講師部 Y(石川県支部長)
 
 阿弥陀仏はすべての人を一生造悪、曽無一善の者と見抜かれ、そういう者と知らせて救う為に、大悲の願船を造ってくださいました。一方、「この世には善人と悪人がいる」と、全人類は固く信じこんでいます。これを否定したら、法律も、倫理、道徳、学校教育も全てが崩壊し、社会は大混乱に陥るでしょう。
 そんな私たちをどのように真実へ導くか、弥陀が五劫思惟の末に建てられたのが、摂生の三願(十八、十九、二十願)であるとお聞きしました。
 その中の十九願で「修諸功徳(諸の善を修めよ)」と勧められる弥陀の御心に従って善を実行すれば、雑毒の善(毒の雑じった善)であっても尊い宿善となり、この世も善果が現れる。無駄は一つもないとお聞きしました。
 無上の道を知らされた親鸞学徒は、とても独り占めにはしておれません。一人でも多く,一刻もはやく、お伝えしたいと思います。(顕真平成25年8月号_P45_6/16大導師以上座談会_法友通信_より)

一読して、いろいろと気がつくところがあります。
まず、

曽無一善の者と見抜かれ、そういう者と知らせて救う

が気になりました。

阿弥陀仏は、「知らせて」救うという本願は建てておられません。法然聖人のお言葉に以下のものがあります。

本願の念仏には、ひとりだちをさせて、すけをさゝぬなり。すけといふは、智慧をもすけにさし、持戒をもすけにさし、道心をもすけにさし、慈悲をもすけにさす也。善人は善人ながら念仏し、悪人は悪人ながら念仏して、たゞむまれつきのまゝにて念仏する人を、念仏にすけさゝぬとはいふなり。さりながら悪をあらため、善人となりて念仏せん人は、仏の御心に叶べし。かなはぬ物ゆへに、とあらんかゝらんと思ひて、決定心おこらぬ人は、往生不定の人なるべし。 (勅修御伝21)

ここに「善人は善人ながら念仏し、悪人は悪人ながら念仏して」と言われています。善人に「曽無一善と知らせて」とは言われていません。また、悪人に「曽無一善と知らせて」と言われてもいません。


高森会長の説によれば、

頭の火を振り払うような真剣さで善を実行した時に、離れ切れぬ恐ろしい煩悩の実態を知らされます。(顕真平成25年8月号P46法友通信_「雑毒の善」は真剣な修善で知らされる 特専部(公認会計士)W)

ですから、その人が善人にしろ悪人にしろ「頭の火を振り払うような真剣さで善を実行」しないと「そういう(曽無一善の)者と知らせて救う」ことはできないのが阿弥陀仏ということになります。


阿弥陀仏は、私を「教育して救う」と本願を建てられてはいません。教育して救うというのは「悪の自覚のないお前は助けられないから、まず悪を自覚することころから始めよ」と指導してから救うということです。もし、そのような本願であったら、臨終の人は助けることができません。


現在親鸞会会員の方は、どれだけ「曽無一善」と知らされているのでしょうか?また、今後どれくらいの時間がたてば「曽無一善」と知らされると思っているのでしょうか?明確に考えたことがないというならば、結局のところ「ただ今阿弥陀仏に救われたい」と本気で思っていないということです。それは阿弥陀仏の願心を踏みにじって、特定の人間の話を聞いているに過ぎません。


ただ今助ける本願にただ今救われてください。特に、法友通信の講師部Yさんは、私もお世話になった人です。このエントリーを読んでいるかどうかはわかりませんが、早く本願を聞いてください。