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親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

批判をかわしていくうちにますます支離滅裂になった親鸞会の善の勧め(顕正新聞平成25年7月15日号論説より)

宗教法人浄土真宗親鸞会高森顕徹会長)機関誌・顕正新聞平成25年7月15日号を読みました。

結論から言いますと、誰に向かって書いているのか分からないし、何を書いているのか分からないのが正直な感想です。

以下、顕正新聞論説より気になったところを抜粋します。


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「私は滝壷に落ちるのは嫌だし、恐ろしい。だけれども、弥陀の浄土に生まれたいとは思わない」
(略)
教えのとおり実践していた韋提希が、『観経』の説法で「浄土に生まれたい」という心が起きた時、釈迦は改心の笑みを漏らされた。
その心が起きたのは、弥陀が十九願に「我が国(極楽浄土)に生まれたいと欲って善をせよ」と誓われているからであり、全く弥陀に起こさしめられた航路だったのである。

上記を読んで思ったことは、以下の点です。

1.親鸞会会員は全員「浄土に生まれたいとは思わない」のか?

最初の「私は滝壷に落ちるのは嫌だし、恐ろしい。だけれども、弥陀の浄土に生まれたいとは思わない」というのは、高森顕徹会長への質問としてある会員から出たものです。そういう人もいるのかもしれませんが、親鸞会会員の全ては「弥陀の浄土に生まれたいとは思わない」のでしょうか?もしそうならば、何のために「浄土真宗」を名乗る団体の話を聞いてるのかが疑問です。


別の言い方をすれば、その会員の方は高森会長からいつも「滝壷に落ちる話しかして聞いていない、弥陀の浄土に生まれられるという話はほとんど聞いたことがないない」ので、そのような質問が出てきたというのが現実だと思います。ただ、実際に「浄土に生まれたい」と思っているからこそ会員を続けている人が多いと思います。

2.「浄土に生まれたい心」を起こすために、高森会長は十九願の話をするのか?

論説の内容からすると、十九願の誓い通りに「浄土に生まれたい心」を起こすために、高森会長は日々観経の説法をしているということになります。とはいっても、現実に話をしていることは「廃悪修善」やお布施の勧めです。
座談会で、「浄土に生まれたいと思わない」という質問が出たのは事実として、仮にそんな人のために高森会長が話をしているのなら、すでに「浄土に生まれたいと思っている」人はどうしたらいいのでしょうか?
先ほども書きましたが、親鸞会会員の多くは「浄土に生まれたい」と思っています。それでもなお「廃悪修善」「十九願」「観経」の話を続ける目的は、「浄土に生まれたい心を起こすため」ではないということは明らかです。

3.「善の勧め」の行き詰まり

親鸞会は「宿善を厚くしなければならない」と主張し、「宿善が厚くなるには、高森会長の話を聞き、勤行をし、親鸞会の活動(お布施、勧誘活動)にまい進すべし」と「(親鸞会基準の)善の勧め」をしてきました。
それが、浄土真宗の教えと違うと、過去いろいろと批判をされてきました。その批判をかわすために、三願転入という言葉を持ち出したり、「八万四千の法門は……」のご文を出してみたりしてきました。どれも、ネット上でも種々批判されて行き詰まっていたのが親鸞会です。

そこで、今回の論説にあるように「善の勧めをするのは浄土に生まれたい心を起こすためだ」と主張しました。仮に、「浄土に生まれたい心を起こすために親鸞会は善を勧めている」とするならば、「浄土に生まれたい心のある」人は親鸞会を卒業しなければなりません。なぜなら「それしか教えていない」からです。
また、「会員の多くは浄土に生まれたいと思っていない」というのならば、最初に書いたように「全人類は滝壷に落ちる」と死の恐怖や地獄に落ちる話ばかりをして、その恐怖心で会員をしばっているのが高森会長であると、自ら告白をしているようなものです。


どのみち「善の勧め」をする根拠は、教義以前の問題として理屈にあいません。
いつまでも「善の勧め」にしがみつくのをやめて、阿弥陀仏の第十八願をただ今聞いて救われることをお勧めします。