親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

「『雑毒の善』ならやらない方がいいのか」(顕正新聞平成25年7月1日号論説および親鸞会公式サイト掲載)を読んで思ったこと

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顕正新聞平成25年7月1日号を読みました。その中の論説に「『雑毒の善』ならやらない方がいいのか」と相変わらず誰に向けて書いているのかよく判らない文章がありました。それについて思ったことを書きます。
全文をご覧になりたい方は「雑毒の善」ならやらない方がいいのかを参照下さい。


以下、疑問に思ったことについて順番に書いていきます。

何のために書いているのか?

内容の全文を読めば、二通りに考えられます。

  1. お布施に消極的な会員
  2. 退会者に対するネガティブキャンペーン
1.お布施に消極的な会員

現在親鸞会では、地元の会館建設や、高森会長の著書の新刊発売など、いろいろな「お布施(献金)」を要求されています。それに対して「いくらなんでもそんなに要求されては困る」というのが現役会員の多くの実感です。
それに対して「雑毒の善(お布施)ならやらない方がいいのか」と、各地の支部長に読ませる文章を書いたのが論説の執筆者です。
しかし、この論説の読者は他にもあります。


2.退会者に対するネガティブキャンペーン?

これは、対象者が両方有ります。つまり現役会員に向けて「退会者はお布施(雑毒の善)をしなくてもいいと勧めている間違い者たちだ」と主張しています。その一方で、退会者にむけて「お布施の勧めが不要だというのは全く間違いだ」と主張しています。
しかし、考えて見ると退会者に向けて主張していることは全くのポーズだけです。あくまでも、「現役会員」がお布施に消極的にならないように書いているだけです。


結論:論点をずらす詭弁に満ちた「論説」

退会者(除名も含む)が、親鸞会に対して批判することを一言で言えば「南無阿弥陀仏一つで救うと言われた阿弥陀仏の本願を無視して,なぜ善をしなければ(宿善を厚くしなければ)ならない(助からない)というのか?です。


あくまで、退会者が主張しているのは「信心決定の為に善は必要なのか(南無阿弥陀仏以外に必要なものがあるのか)」なのに対して、「善をしなくていいのか(倫理的な意味で)」ということです。これは明らかに論点ずらしです。



以下、浄土真宗親鸞会公式サイトより

仏眼からは、人間の行う善は虚仮雑毒で、往生の役に立つ善は一つもないが、行為そのものは善なのだから、善因善果、悪因悪果、自因自果の因果の道理によって、まいたタネに応じた結果が現れるのである。どうせ雑毒だからと開き直って自堕落な生活をしていたら、悲惨な人生になるのは当たり前のことなのだ。(「雑毒の善」ならやらない方がいいのか)]

人間の行う善は虚仮雑毒で、往生の役に立つ善は一つもない」ならば、浄土往生のために勧める意味が全く理解できません。

行為そのものは善なのだから、善因善果、悪因悪果、自因自果の因果の道理によって、まいたタネに応じた結果が現れるのである。どうせ雑毒だからと開き直って自堕落な生活をしていたら、悲惨な人生になるのは当たり前のことなのだ。
これは「悲惨な人生を送りたくなければ善をせよ」というので、まったく浄土往生と関係ない話です。

最後に気になったところ

信前信後を問わず、因果の道理を深信する親鸞学徒は、光に向かって日々、努力精進するのは当然であろう。

http://www.shinrankai.or.jp/b/gendai/20130701zoudokunozen.htm

この文章を書いた人は、信前なのでしょうか?信後なのでしょうか?
答えは来ないことを知りつつ、何か反論があればお待ちしております。