親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

高森顕徹会長(宗教法人浄土真宗親鸞会)の言う「宿善をつむ」表現の変遷について

安心問答にあったコメントですが、こちらにエントリーとして書きます。

脱会5年目 2013/07/12 15:22
ひなさん、本筋からは外れた話なのですが、親鸞会で「宿善を積む」という教義を刷り込まれたというのは本当でしょうか?
少なくとも私が会員だった頃は、宿善にせよ善根にせよ「積む」という言い方は不適切なのでしないように、という指示が会長の言葉として伝えられていたのです。
(講師部員や一般会員さんがその通達を守っていたかは不明ですが)
親鸞会の教義は宿善の解釈を誤っていると思いますので、いずれにしても同じことかも知れません。


id:shinrankaiuso 2013/07/12 16:23
昔昔は、「宿善を積む」と言われていて、途中で「宿善を求める」になりました。しかし、最近また「宿善を積む」と言っているとか。
http://blog.livedoor.jp/skai_as/archives/23650309.html

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130711/1373533862#c1373610125

id:yamamoya 2013/07/12 18:23
脱会5年目さん

「宿善を積む」はある時期から使わなくなりました。これは親鸞会がいう「宿善論争」で「宿善を積むはおかしい」と突っ込まれたことによるものです。
その後は、言葉は変わっても実態としては「宿善が大事」「これがなければ助からない宿善とはなにか」と最近の機関誌も書いています。それについては、脱会ブログに明日にでも書きますのでよろしくお願いします。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130711/1373533862#c1373621006

そこで、「宿善を積む」と、過去に親鸞会が言っていた部分について、紅楳英顕相愛大学名誉教授の書かれた、現代における異義の研究 伝道院紀要24号より紹介します。

伝道院紀要24号は、昭和54年12月20日発行されたものです。そこには、過去の顕正新聞の引用があります。

 まず自身の信心決定をめざせ、そのためには宿善をつめ(イ、聴聞、ロ、破邪顕正)(第93号、昭和45・2・15)

http://goo.gl/R3mis

ここに「宿善をつめ」の言葉が出てきます。機関誌に載るくらいですから、このころは親鸞会内部ではよく使われていた言い回しだと思います。


ただ、さすがにこの「宿善をつむ」は余りにも自力修業の仏教を想起させる言い方なので、この伝道院紀要24号が公開されたあと、親鸞会内部ではご法度の言い回しになったようです。


その後、親鸞会は昭和56年4月に「本願寺の体質を問う」を発行しました。それに対する反論として、紅楳英顕師は、派外からの異説についてという論文をかかれました。


それに対して親鸞会は、昭和59年3月に「本願寺なぜ答えぬ」を発刊します。しかし、この「派外からの異説」に関してはほぼ完全スルーでした。
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(「本願寺なぜ答えぬ」目次より)


ここに「参照資料」として掲載されているのは、灘本愛慈師の「宿善について」のみでした。直接「本願寺の体質を問う」に反論した「派外からの異説について」は「参照資料」から全く外されています。しかも、紅楳師が「派外からの異説」を書かれてから3年近く経過してやっとのことで世に出したのが「本願寺なぜ答えぬ」ですから、事情を知る人からすれば「親鸞会なぜ答えぬ」といったところです。

そのあと、しばらくは表立って「宿善をつむ」という表現は使わないものの、あいかわらず、「救われるためには宿善を求めよ」というのが、親鸞会の変わらないスタンスでした。

その表現に変化が表れたのは、平成4年の親鸞会報恩講でした。資料を調べると、平成4年の親鸞会報恩講で突然高森会長は「三願転入」を言い出したことがわかります。
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(顕真平成5年1月15日号より)



その翌月の顕真の特集は「建立ご報謝」でした。
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(顕真平成5年2月15日号より)

親鸞会の機関誌を見るとよくわかりますが、親鸞会にとって財政的にひっ迫している時や、大型投資を行う時に必ずといっていいほど「財施」「お布施」「ご報謝」「宿善」の文字が踊ることです。
丁度このころは、アニメ「世界の光親鸞聖人シリーズ」の制作があり、それにまつわるお金が必要だったのだろうと想像できます。


その後、「三願転入」一辺倒になったのが、親鸞会35周年記念大会でした。
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その後、高森会長は三願転入で「十九願は善を勧めたもの、善をしなければ信仰は進まない」と強調してきました。結局のところは「お布施」「勧誘(アニメの戸別訪問販売を含む)」を推進してきたのが、平成5年以降の親鸞会です。

しばらく、「三願転入」の一本槍で押してきた親鸞会に変化があらわれたのは、平成22年前後からネット上で、親鸞会の三願転入に関する批判エントリーが出始めたころです。


※参照
Google検索で「親鸞会 三願転入」の検索結果 


そのころから、親鸞会は「三願転入」という言葉を使わなくなりました。その後「八万四千の法門はみなこれ浄土の方便の善」を前面に出して、「善のすすめ」を強調しました。しかし、それもネット上の批判により、それもまた言わなくなりました。


※参照
Google検索で「親鸞会 八万四千の法門」の検索結果 


その後、親鸞会では全国各地に会館を建てる「芳野作戦」が行われるようになり、のど元過ぎれば熱さ忘れるといわんばかりに、また「宿善」を前面に出して言い始めました。


それが最近の機関誌に出ています。
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(顕真平成22年10月号 宿善と聴聞と善のすすめ)
これに関しても、ネット上で批判エントリーが多く出されました。


※参照
Google検索で「宿善と聴聞と善のすすめ」の検索結果

ちなみにこのシリーズは平成23年7月号の顕真まで続きますが、質問に答えられなくなったようで、連載が非常に中途半端な状態で終わりました。一応タイトルは「疑難と答え」とあるのですが、答えにはまったくなっていません。f:id:yamamoya:20130713160527p:plain


その後、平成24年1月号以降は、各地の会館の記事ばかりになっています。
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そのころに、高森会長は再び「宿善」の話を繰り返していきました。最近では、滝つぼに堕ちる船の話と、そこから脱するためには善をせよということだそうです。


以上、いろいろと過去の機関誌から紹介しましたが、一貫していることは「阿弥陀仏に救われるためには善をせよ」という点です。
「宿善をつめ」とか「十九願では善を勧められている」とかいろいろと言い方は変わっていても、とどのつまりは「救われる為には善をせよ」はかわりません。これが高森顕徹親鸞会会長の六十年間変わらないスタンスです。


これが親鸞聖人の教えと合っているのか、間違っているのかについては言うまでもなく間違いです。それについては、エントリーに参照として挙げたGoogle検索結果を一つ二つ心静かに読まれたらわかると思います。


外部からの批判をうけて「言い方」を変えても、「救われる為には善をせよ」「善とは高森会長の指示したものに対するお布施であり、親鸞会への勧誘である」というのが親鸞会です。そのような親鸞会に、留まる理由はあるでしょうか?夜寝る時に、少し考えてみてください。