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親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

なぜ親鸞会の話を聞いてみようと思うのかを考えてみる2

前回のエントリーの続きです。

親鸞会のチラシを見たり、直接勧誘を受けて「一度話を聞いてみよう」と思う人について、以下の二つがあると私は考えています。

1.人生の目的を知りたい
2.真宗の教えを学びたい

前回は、(1)について書きました。今回は(2)について書きます。

2.真宗の教えを学びたい

この場合は、主にポスティングや折り込みチラシでくる人に多いです。
参考までに、最近親鸞会が特に力を入れているアニメ上映会のチラシは以下のものです。
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このチラシの文章にも「歎異抄の意味は?」「親鸞聖人が90年の生涯で教えられたことは?」とあります。これを日ごろから知りたいと思っている人、真宗の教えを学びたいと思っている人が会場に足を運びます。

私が親鸞会講師部で同様の公開講座をしていた時に、会場の来られた方は「真宗の教えを学びたい」と言う人が大半でした。主に、60代以降の人は、その理由が多いです。「寺で聞いても分からなかった」「住職から聞いたことがそもそもない」という意見もよく聞きます。

学ばないと救われない?

このような「真宗の教えを学びたい」という動機でやってきた人は、非常に「学びたい、知りたい」という気持ちが強いです。もちろん、そういうことがきっかけとなって浄土真宗の教えを聞くご縁になることは大変よいことだと思います。
しかし、親鸞会にあるのは正しいかどうかは別として「学ぶこと」だけであって、「救い」はありません。

親鸞会に入会すると「教学試験」を受験することを推進されます。教学試験とは、親鸞会発行の教学聖典と呼ばれる一問一答形式のテキストです。
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1号から9号まで発行されて、各50の問いと答えが掲載されています。教学試験は、1号ごとに試験用紙が作成され、試験内容はそのテキストの内容をそのまま覚えて書く形式になっています。
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1号でいえば、試験用紙には問いだけが1から50まで印刷してあり答えが空欄になっています。その空欄を全部テキスト通りに埋めて、50問中45点以上で合格となります。しかし、採点基準も厳しく、誤字脱字は原点対象となります。

チラシを見てきたような60歳以上の方が、この試験を受けるというのはとても大変なことです。私もよく会員の人から「とても覚えられません」と何度も相談を受けました。そして、1号から7号まで全ての試験を合格すると、1号から7号までの350問からランダムに出題された50問に答える筆記試験が「大導師試験」といわれ、これに合格すると「大導師」という学階が親鸞会から与えられます。現在では「大導師以上座談会」という高森会長の座談会も設けられ、会員が試験を受けること推進しています。

しかし、この試験には大きく二つ問題があります。
1.試験を受けられるくらい記憶しないと救われないと受験者に思わせる
2.試験の出題範囲の教学聖典にそもそも問題が多い。

1.試験を受けられるくらい記憶しないと救われないと受験者に思わせる

私が学生のころは「教学と行学は求道の両輪だ」と担当講師からよく聞かされました。そして、教学試験のテストを一日も早く合格して「大導師」となるように推進されました。当時は(平成5年)は、「大導師以上」でなければ高森会長の「教学講義」を受講することができませんでした。


そのころ「教学講義」は、「法話では聞けない深い内容が高森会長から聞ける」と宣伝されていました。それを聞いた私は「法話では今一つ信心とかよくわからない。教学講義に出れば法話でわからない不明点が解消され、信心決定できるのではないか」と考えて試験を受けた覚えがあります。


現在もそうですが「参加者限定の講義や座談会に出られる」という名目で教学試験を使うと、「法話で聞けないことを聞けば救われる」と参加者は思います。そうやって試験に合格しようと、必死に教学聖典の暗記に励みます。しかし、そうやって日々暗記に励んでいると、試験に受かることや、学ぶことが優先事項となり、いつの間にか「学ばないと信仰は進まない」だとか「自分は何も知らないから救われていないのだ、だからよく知らねば」という思考になっていきます。


高森会長も、それを助長するように「キミたちは何もわかっとらん」「横の線の最初にも乗っていない」と壇上でアシスタントや参加者によく言っています。そう聞いた会員は、「もっと教学や活動にまい進しよう」と心を引き締めています。


とはいえ、現実問題として親鸞会の中で「救われた」とされている人はほとんどいません。「救われること」が、多くの人にとっては「ほとんどないこと」になっています。そうなると、「救われる為」に法を聞くのではなく、「学ぶため」に法を聞く人が大半になっていきます。

「聞法者」から「学徒」へ

自分自身が浄土往生の身になる、信心決定の身になるのが法を聞く人が求めていることです。しかし、前述したように親鸞会の会員の多くは「学ぶこと」が優先事項となっています。
もちろん、まったく信心決定する気持ちがないのではありません。それでも、あまりにも信心決定のハードルが高いと思っているので、「まずは学ぼう」という思考に陥っています。

それを象徴するのが「親鸞学徒」という言葉です。親鸞会会員は「親鸞学徒」と自称しています。これは、会長はじめ、会員の意識を非常によく現した言葉だと思います。「学ぶこと」が悪いのではありませんが、「救われる為にはまず学ばねば」と思っている人たちということです。


こう書くと「学ばずに救われるのか?」と親鸞会は言ってくるかもしれません。それに対しては、「学べない人を助けるために南無阿弥陀仏となられたのだ」と答えます。一文不知の人間でも救うのが、阿弥陀仏の本願です。「学ばねば救われない」かのように会員に思わせ、学ぶことに止めておくのは、法を曲げる行為です。また、会員の多くは学ぶことで安心しています。


前述の教学講義などでは、参加者の感想で多いのは「今日は日ごろ聞けないことが聞けた」「こんなことは会長先生から初めてお聞きした」というものです。「初めて聞いた珍しいこと」を「新たに知識として習得した」ことを喜んでいます。喜ぶのは結構ですが、それと信心決定は何か関係があるのでしょうか?全くありません。


「学ぶ」のは、阿弥陀仏に救われてからいくらでもできます。また、多いに学べばいいことです。しかし、「学んでから救われよう」では順番が逆です。

2.試験の出題範囲の教学聖典にそもそも問題が多い。

また、「学ぶ」内容自体も、「親鸞会教学」と揶揄されるくらい、いろいろと問題が多いです。
教学聖典自体の問いも、種々問題が多くありますが、これまでいろいろな人が言及してきたことなのでこれは割愛します。

結論:「真宗の教えを知りたい」で入っても出口がないのが親鸞会

上記にかいてきたことをまとめると、このように言えます。
正信偈の意味が知りたい」「歎異抄の意味が知りたい」という「教えを知りたい」がきっかけになり、法を聞く人は今日大変多くあります。そうやって、真宗の教えを聞かれる人が表れることは大変結構なことです。
しかし、親鸞会は「教えを知りたい」という人にとって浄土真宗の入り口にはなっているような体をしていますが、出口はありません。一生「親鸞会教学」を学び続けることはあっても「阿弥陀仏の本願」を聞くことは非常に困難な場所です。

なにかのきっかけで、親鸞会会員となった人は、「親鸞会教学」を「学びたい」なら親鸞学徒を続けるのも一つの選択肢です。しかし、阿弥陀仏の本願を聞き、浄土往生を遂げる身になりたいのならば、「親鸞会教学」を「学ぶ」のではなく、「南無阿弥陀仏を聞いて」ください。親鸞会以外では聞けないというのは、大変な間違いです。いつでもどこでも南無阿弥陀仏は、私が称えられるように聞けるように私に働いてくださいます。
信心決定したい気持ちが残っているならば、「まず学ぶ」ではなく「まず信心決定」です。南無阿弥陀仏をただ今聞いて救われてください。親鸞会に止まる理由は何もありません。