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親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

親鸞会がいう「全人類の代表」を聞いて思ったこと

「全人類の代表」と聞いて思うこと : あさ川進の、宗教と私を読んで思ったことを書きます。

続くご講演で高森先生は、親鸞聖人のみ教えは全人類を救う教えであり、二千畳の参詣者は、世界70億人の代表とも言える。真剣に聞き、伝えなければならぬと繰り返された。


二千畳の参詣者は全人類の代表だとか、弥陀から選ばれた人だとか、最近よく聞くような気がします。
そして、何人かの会員さんの感想を聞いたところ、やはりこの、「全人類の代表」というところに奮起されていたようでした。(「全人類の代表」と聞いて思うこと : あさ川進の、宗教と私

私が親鸞会在籍時にも「全人類の代表」という表現は多用されなかったものの、似たような形で聞いたことがあります。以前は「選ばれたなかの選ばれた人」という表現をよく聞きました。


こういう言い方は「選ばれた人」と「選ばれなかった人」という対立軸があるというものの見方を助長してしまいます。結果として、阿弥陀仏から言えば差別のないお慈悲に、差別を設ける結果になってしまいます。


また、当時「全人類の代表」と聞いていた私は、「私が全人類を救うのだ」と思って親鸞会で活動をしていました。そうは言ってもやっていることの実態は、「高森会長の法話に人をいかに誘うか」という活動でした。親鸞会内部では、「全人類を救う力がある、または正しく法を伝えることができるのは高森会長のみ」ということになっているので、一講師部員だった私には「法を伝える」ということはできないことになっていました。


それに加えて、自ら阿弥陀仏に救われていなかったころは、「法を伝える」ということが何のことか分かっていませんでした。せいぜい「高森会長の話したことをそのまま伝える」努力をするだけでした。当時は、「自ら信心決定したこともないのだからそうするしかない」としていましたが、今考えるとそれは間違いでした。


それは以下の2点について言えます。
1つ目は、そのまま伝えようとした高森会長の話が真宗教義として間違っている点です
どれだけ「正確」に伝えたところで、その元になる「高森会長の話」が間違っているのですから、法を曲げる片棒を担いでいることになってしまいます。

2つ目は、仮に正しい法であったとしても、法話として一方的な話はできても法を伝えることはできないからです。確かに南無阿弥陀仏一つの法ですから、私が救うわけではありません。それでも、法の話を聞いて不明なところや、信心について参加者から尋ねられるとたちまち答えに窮してしまいます。参加者の「本当に知りたいところ」、いわゆる法について結果的に伝えたことになりません。


過去に、私が親鸞会講師をしていたころ、80代の会員の方から「どうすれば信心決定できるのでしょうか?」と尋ねられたことがあります。
私は、「それは聴聞に極まるですから、高森先生の話を聞くしかないのです」と答えました。
それに対して「私はもう80を越え、なんとか信心決定したいと思って富山に行くんだけれども、移動で疲れることもあり、法話で聞いたこともあまり覚えていませんし、途中で寝てしまいます。こんなことで助かるのでしょうか?臨終に間に合うでしょうか?」と聞いてこられました。


私は答える言葉がありませんでした。「とにかく重ねて聞きましょう」というしかありませんでした。本当の意味で法を知らない者は、法を伝えることはできないとその時は強く感じました。


このエントリーを読まれている親鸞会会員の方に言いたいことは、「全人類の代表」という言葉を聞いて「法を伝えよう」と思うのならば、「まずアニメ上映のチラシを配る」前に、「まず信心決定してください」ということです。


現役会員の人が高森会長を信じる気持ちもわかりますが、どれだけ「全人類の代表」として「高森会長の法話に人を誘う」活動をしたとしても、それは貴方の救いとは全く関係がありません。目の前の縁正の人に本当の意味で法を伝える気持ちも覚悟もなく会長まかせにしているから、自らの救いも高森会長まかせになっているのです。


「わが身の後生の一大事」と親鸞会で聞いていると思います。会員の方が信心決定されないままこの世の命が終わっても、親鸞会も高森会長も責任を取ってはくれません。たのむべきは、団体やその会長ではなく南無阿弥陀仏です。