親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

顕真に「真剣に聞け」と書き、顕正新聞に「真剣に聞こうとばかりする者は助からぬ」の御一代記聞書を掲載する親鸞会機関誌を読んで思ったこと。

前回の顕真平成25年4月号のエントリーに関連して、顕正新聞平成25年4月15日号を読んで思ったことを書きます。

前回のエントリーで「『真剣に聞け』という話を真剣に聞く」ことの問題について書きました。この顕真と同時に会員に配布される顕正新聞(親鸞会機関誌)4月15日号に、御一代記聞書について書かれている記事がありました。しかし、その御一代記聞書のご文は、「真剣に聞こうとばかりするものは救われない」と仰ったものです。顕真4月号の内容を全く否定されたものです。

しかし、そこに書かれている内容は、いつもの通りの断章で、関連したところを削除した解説でした。

その記事は以下のものです。
これについて、書いてある顕正新聞4月15日号の記事は以下のものです。

極楽で楽しもうとする人は助からぬ


『御一代記聞書』に蓮如上人が、「『極楽は楽しむ』と聞きて『参らん』と願い望む人は仏にならず、弥陀をタノム人は仏になる」とおっしゃったとありますが、どんなことでしょうか。


蓮如上人がある時、「極楽へ往って楽しもうと思って聴仏法を聞いている人は極楽へも往けぬし仏にもなれぬ。現在救われた(弥陀をタノム)人が極楽へ往生できるのである」とおっしゃったと記述されています。
(略)(『親鸞聖人の花びら』藤の巻52)
(顕正新聞平成25年4月15日号(2)「極楽で楽しもうとする人は助からぬより)

親鸞聖人の花びら 藤の巻

親鸞聖人の花びら 藤の巻


上記で紹介された御一代記聞書の全文は、以下のものです。

一 前々住上人(蓮如)仰せられ候ふ。聴聞心に入れまうさんと思ふ人はあり、信をとらんずると思ふ人なし。されば極楽はたのしむと聞きて、まゐらんと願ひのぞむ人は仏に成らず、弥陀をたのむ人は仏に成ると仰せられ候ふ。(御一代記聞書_浄土真宗聖典―註釈版122_P1271)

http://goo.gl/hqiqO

現代文に訳すと、以下のようになります。

蓮如上人は、「仏法を聴聞することに熱心であろうとする人はいる。しかし信心を得ようと思う人はいない。極楽は楽しいところであるとだけ聞いて往生したいと願う人はいる。しかしその人は仏になれないのである。ただ弥陀を信じておまかせする人が、往生して仏になるのである」と仰せになりました。

この御一代記聞書では二通りの人を対比して「仏にならず」と「仏になる」に分けられています。

「仏にならず」と言われた人

  1. 「聴聞心に入れまうさんと思ふ人」(真剣に聞こうとする人)
  2. 「極楽はたのしむと聞きて、まゐらんと願ひのぞむ人」

「仏になる」と言われた人

  1. 「信をとらんずると思ふ人」
  2. 「弥陀をたのむ人」


熱心に聞こうという人や、極楽は楽しいところであるとだけ聞いて往生したいという人は仏にならない。救われないといわれています。
それに対して、信を得ようと思う人や弥陀をたのむ人は仏になるといわれています。信をえるとは、弥陀をたのむと同じ意味の言葉です。弥陀をたのむ人は、信を得る人ですから仏になります。もちろん、信を得ようとしたから仏になるのではなく、弥陀をたのむから仏になるのです。

決して、真剣に聞こうとしたから仏になるのではありません。


読まれた通りで、御一代記聞書の前段の部分は省略してあります。問いがあったから、関連した部分は省略したということなのかもしれませんが。上記の御一代記聞書は、最初に書きましたが「真剣に聞こうとばかりする者は救われない」と言われたものです。顕真で「真剣に聞け」と書きながら、顕正新聞では「真剣に聞こうとばかりする者は救われない」と書かれた御一代記聞書を掲載しているのですから、どちらが本当なのかわかりません。しかも、顕正新聞の方は都合の悪い部分の解説は一切載せてないという、親鸞会の断章ぶりがよくわかる号となっていました。


最後に、参考として、上記の「親鸞聖人の花びら(高森顕徹著)」の元の文章では、その前段がそのまま書いてありますので、比較のため紹介します。

蓮如上人がある時、「熱心に仏法を聴聞する人はあるが、信心を早く獲得しようと真剣に求むる人がいない。死んだら極楽へ参って楽をしようと思って聴聞しているものばかりだが、そのような人は絶対に極楽へも往けぬし仏にもなれぬ。現在救われている(弥陀をタノム)者だけが往生もできるし、仏になれるのだ」と、仰言ったということです。(略)
(こんなことが知りたい(2)37_親鸞会発行_高森顕徹著)

こんかことが知りたいを読んできた会員歴10年以上の現役会員の人に最後に言っておきます。
会員歴が長い人ほど、「会長の昔の話はよかった」という人がいますが、こんな短い文章でも信心のことは書かないのが現在の高森会長です。顕真平成25年4月号に「弥陀の救いは「信心」一つ」と大上段に特集記事を書いていても、実際には「真剣になれ」と勧めています。信をこの場で獲よという話を聞いたことは、とくにここ数年は皆無に等しいのではないかと思います。私が最近会った現役会員の人に聞いてみても、「19願、宿善、真剣に聞け、チラシをまけ、お布施をしろ、まだスタートラインにも立っていない、全然分かっていないとの話はあっても、今日信を獲よとは聞いたことがない」と言われていました。


「真剣になろうという努力」は「弥陀をたのむ」とは違います。「弥陀をたのむものは仏になる」と言われた、御一代記聞書の御言葉をよくよく読んでみてください。