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親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

顕真平成25年4月号より「高森会長のいう『真剣に聞けという話』を真剣に聞け」ではどこへもいけません。

顕真 顕正新聞 親鸞会機関誌より

親鸞会機関誌顕真4月号を読みました。その中で、法友通信:2月24日テレビ講演…弥陀の救済に絶対不可欠な「宿善」仏法は聴聞に極まる(P42ー)の記事を読んで思ったことを書きます。


今回の法友通信の内容は、結論から言いますと、「『真剣に聞け』」という話を真剣に聞け」という高森会長の話を、聞いた会員が、「真剣に聞きます」と高森会長に手紙を書いたというものです。

以下、顕真より抜粋

真剣にならぬ自分に同じ話を何度でも 東京都 会員
(略)
後生の解決の道は真剣な聴聞、と添えられています。しかし、どれだけ実行しているのか、と尋ねられ、反省させられました。
気持ちばかりが焦りますが、
「水よく石を穿つ」の心構えで、同じ話を何度でも真剣に聞かせて頂くしかないと、決意を新たにいたしました。

信心獲得の方便にならぬ善はない 富山県 親友部員
宿善が厚くなり、開発ということがあると、よく分かりました。
(略)
「私は真剣に聞き求めている」と言っても、「つもり」だけです。
「ひと月に4日聞いた」と言っても、1日3時間余りで、その間も、心は飛び回っております。お粗末至極、これではとても滝壺に落ちるまでには間に合わないと、愚かな私にも知られます。
(略)
親鸞会機関誌_顕真平成25年4月号P43より。強調は原文のまま)


上記のものも含めて、顕真4月号に掲載された内容を読むと、高森会長の話の内容は「弥陀の救済に絶対不可欠な「宿善」を厚くするために、真剣に聞け」というものだったようです。
真剣な聞法といっても、今回の座談会の内容もそうですが、阿弥陀仏の本願と関係ないことを真剣に聞くことを親鸞会では「聴聞」と称して、会員に推進しているところが間違いです。


わざわざ高森会長の話を聞こうと足を運んだ会員の多くは、「信心決定しよう」「信をえよう」と思ってきています。それらの人に対して、高森会長が話した内容は「真剣に聞け」でした。そのため法友通信でも、「真剣にならない自分に同じ話(真剣に聞け)を何度でも」と手紙が紹介されています。法友通信は、会員の手紙の形式を借りて「今回の高森会長の話はこうだった。このように受け取るべきである」と弘宣局が会員に読ませているものです。ですから、2月24日のテレビ講演の内容は、要約すると最初に書いたように「『真剣に聞け』」という話を真剣に聞け」となります。


これが、いかにおかしなことかは、親鸞会にいると分からなくなってしまいます。過去の私も、このような話に疑問を持っていなかったので、以下対話形式で書いてみます。

高森会長:真剣に聞きなさい
会員:分かりました

(次回の高森会長の法話)
会員:今日こそ、信をえよう。そのため富山に来たのだ。
高森会長:真剣に聞きなさい。
会員:真剣になっていませんでした。反省します。

(そのまた次の高森会長法話)
会員:今回こそ真剣に聞くぞ(だんだん信心決定が問題にならなくなる)
高森会長:ひと月に4日聞いたと言っても…(以下略)
会員:まだまだ真剣になっていませんでした。これではとても間に合わない。もっと真剣に聞かねば
(以下、無限ループ)


読まれれば分かるように「親鸞会は真剣な聞法を勧めている」と高森会長は主張しますが、あくまでも「聞法」とは阿弥陀仏の本願(法)を聞くことです。「真剣に聞けという指導を聞くこと」は「聞法」とはいいません。仏法は聴聞に極まるとはいっても、「真剣に聞けという指導を聞く」ことに極まるのではありません。しかし、親鸞会に長くいる人ほど、上記のような無限ループに陥っています。


「真剣に聞け」という話をどれだけ聞いたところで「真剣になる」かもしれませんが、それだけのことです。どこにも行けません。最近の高森会長の言い方でいえば、真剣になったまま滝壺に落ちるだけです。
阿弥陀仏の本願は、ただ今お前を救うという本願です。「真剣に聞けたら助ける」という条件付きの本願ではありません。


この法友通信に掲載されている会員は、私より以前から親鸞会に入会している人がほとんどでした。「真剣に聞こう」とそれこそ20年以上高森会長についてきて、どれだけ「真剣に」なれたのでしょうか?私が親鸞会にいたころ、会員歴30年、40年という方にそう問いかけてみたことがありましたが、答えは「聞けば聞くほどお粗末です」とか「年をとるとすぐ忘れてしまって……」というのがほとんどです。そして、そう答える会員の顔は、いつもとても寂しそうなものでした。


その表情の裏にある心は「高森会長の指示に従っていない後ろめたさ」から来ているものと思います。しかし、「真剣に聞けない」「真剣になれない」ことを気にする必要はありません。「真剣になれ」と主張しているのは、高森会長であって、阿弥陀仏ではないからです。また、高森会長が貴方を救うのではありません。阿弥陀仏が救ってくださるのです。


では、阿弥陀仏はどう言われているかといえば「お前をただ今助ける」です。ただ今救う本願をただ今聞いて救われてください。「それにはまず」という準備はいりません。

仏法には明日と申すことあるまじく候ふ。仏法のことはいそげいそげと仰せられ候ふなり。(浄土真宗聖典―註釈版御一代記聞書(102)

http://goo.gl/tSn2y

仏法には明日はないというのは、「真剣になること」に明日がないのではありません。ただ今救う本願には「明日」はないということです。「いそげいそげ」と言われるのは、「急いで真剣になれ」ではありません。ただ今本願を聞くことです。ただ今助ける本願を、ただ今聞いて救われてください。「それにはまず」という考えは捨てものです。