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親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

高森会長の教えは、一言で言えば「ウソ、大げさ、紛らわしい」(しかばねさん他のコメントより)

善知識だのみ(知識帰命) コメントまとめ

私は、後生の一大事に驚きがたっていません・・・というか、それが、どういう状態になったことを指すのかも、よくわかりません・・・。(しかばねさんのコメントより) - 安心問答(浄土真宗の信心について)で、しかばねさん、浦島太郎さん、たかぼーさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。
内容が親鸞会色がつよいものなので、こちらのブログに投稿します。

しかばね 2013/04/17 19:08
(略)
私は、親鸞会での求道が八方ふさがりになってしまい、(ここでは、もうダメだ・・・。)と思いました。
でも、後生の一大事の解決を放棄する訳にはいかないので、“浄土真宗限定”で聞法できる場を探しました。
ということは、私は以前に、後生の一大事に驚きが立っていたのですね・・・。

親鸞会では、何かと大袈裟な話を刷り込まれていたような気がします。

私には、高森先生が言っていた“火を見るよりも明らかな一念の体験”もありません。
一念をいつ突破したのか、自分では全くわかりませんでした・・・。

親鸞会では、いつも「地獄一定と突き落とされた一念の時、(そのまま救うぞ~!)の弥陀の“声なき声”を
聞いたのが『聞即信』の『聞』で、ある人で生涯に一度だけあるという体験です。」と聞かされていました。

でも、私は、地獄一定と突き落とされた体験もないし、弥陀の“声なき声”も聞いていません。

私はただ、阿弥陀様に腹の中を“空っぽ”にされて、(おまえには何にもないぞ。)と教えて頂いただけです。
そして、阿弥陀様が、ずっと前から私の所に来て下さっていたのだということに気が付き、
その証拠は、この口から出てくださる“南無阿弥陀仏”であるということが判りました。
私は、“声なき声”ではなく、自分のこの声で、『“そのまま救うぞ~!”の“南無阿弥陀仏”』を毎日聞いています。

私には不思議な体験は一切ありませんでしたが、
阿弥陀様は、御方便で、人によっては不思議な体験をさせることもあるのかな?・・・とは思います。
でも、全員が地獄一定と突き落とされないと“信”を得られないと言うのは、間違いだと思います。

会員さんの中には、「地獄一定と突き落とされた時、体が弱っていると、そのまま帰ってこれなくなる・・・。
だから、しっかりごはんを食べて、体力を付けとかなあかんよ。」と、真顔でアドバイスしてくれる人もいました。
私もバカなので、(だから“仏法は若き時たしなめ”なのかな?)と思っていました。

あぁ~、あの時の自分が目の前にいたら、本気で殴りたいです・・・(怒)。

「地獄一定と突き落とされた時、体が弱っていると、そのまま帰ってくれなくなる…」は、初めて聞きました。やはり、一度は体力的にかなり衰弱する、または、精神的に相当に追いつめられないと救われないということです。


いずれにしましても、親鸞会でいわれるところの「求道、獲信体験」は、お釈迦さまが出家をされて覚りをひらかれるまでの話に近いものを連想させます。お釈迦さまは苦行の末に生命の危機的状態になられ、最後は菩提樹の下で座禅をされ、さまざまな魔を断ち切られて仏のさとりを開かれたと伝えられています。しかし、その追体験をするのは、浄土真宗の救いではありません。

高森会長の教えは、一言で言えば「ウソ、大げさ、紛らわしい」です。大げさかつ、紛らわしい部分と、ウソの部分が巧妙に混ざっているので、聞いている側はなかなか気がつかない人が多いです。

たかぼー 2013/04/18 11:52
高森の説く信一念の体験も、その教義も、驚くべきことにデタラメばかりです。お聖教を読めば読むほどそのことが分かってきます。酷いものです。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130417/1366139592#c1366253564

お聖教によれば、まともな部分あったのだろうかと驚くが親鸞会・高森会長の教えです。

浦島太郎 2013/04/18 13:25
後生に驚きが立つ、ということを山も山さんも肯定的に捉えているようですが
そもそも後生に驚きが立つ、なんて真宗の教えにありましたっけ?
ググってみても親鸞会関係しか出てきません。
そんなもの会長の妄言集のひとつとして捨て去るべきだと思いますが。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130417/1366139592#c1366259134

「高森会長が言うところの後生に驚きが立つ」というのは、確かにおかしなものです。
今回は、「何かに驚く」というのが法を聞く縁となるということで書きました。蓮如上人が白骨の章にかかれているのも、無常に驚くことで法を聞く人があるからだと思います。

しかばね 2013/04/18 17:52
高森先生は、「親鸞聖人は、“雑行を捨てて本願に帰す”と仰っただけで、生々しい体験は一切話されなかった。
我々も獲信の生々しい体験は話すべきではない。」と言っていたので、
親鸞会でいつも聞いていた“火を見るよりも明らかな一念の体験”は、すべての人が通る道だと思っていました。

しかし、今となっては、生々しい体験を話していた張本人こそ・・・「高森さん、あんたかよ!!」という感じです・・・。

親鸞会は「“いつとはなしに救われる”と言っている本願寺は、間違っている。」と言っていますが、私は、“いつとはなしに”救われました。

信心についても、“本願寺”では、『信心とは、つかめないものでございます。』と教えて下さいますが、私には、この表現の方がピッタリときます。
少なくとも、親鸞会で言っていた“大安心・大満足の絶対の幸福”なんて、私にはありません。

阿弥陀様の御慈悲に触れた時だけは、平静でいられなくなりますが、
それ以外は、以前と何ら変わり映えのしない平凡な生活を送っています。

本願寺は、組織自体が大きいので、中には???という布教使もいますが、
ちゃんと浄土真宗のみ教えを守っていますよ。
さすがは親鸞聖人のご子孫だと思います。

浦島太郎 2013/04/19 00:43
会長の体験とはこれですかね。

親切にも休暇中『仏敵』の書をお借りして読ませていただき、また家にあった書物により、
さらにまた華光をも送っていただき、次第にその迷雲も晴れ、今日までの悪疑を恥づるに
余念がありません。ただただ「そのままこい」「そのままでよい」とは何と有難いことでしょうか。
南無阿弥陀仏々々々々々々【華光会発行『華光』第5巻第5号「私の信仰体験」】

会で言っていることと違うので追求されることを恐れて話すべきでないとしているんでしょう。
それと会では獲信者がいないことを隠す目的もあるかもしれません。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130417/1366139592#c1366299796

高森会長自身が書いた体験談は、「火を見るよりもあきらかな一念の体験」ではありません。それまで語っていた「火を見るより明らか」「溶鉱炉に頭を突っ込んだよりもハッキリする」というのは、人の言葉を借りたものなのか、それとも上記の「私の信仰体験」の後にさらに別の不思議体験をしたかのどちらかになります。


親鸞会会員にとって、「高森会長が獲信している」という一点が会員として止まり続ける最後の一線になっています。しかし、獲信してようがいまいが、教えを曲げて伝える人間からは離れるべきです。加えて、過去に語った体験が時間の経過によってことなるということは、どちらかの体験が「獲信体験」でなかったか、あるいはどちらも「獲信体験ではない」ということになります。


時系列的にいって、最近にあたる「火を見るよりもあきらかな一念の体験」が、高森会長の体験だとしても、それを「信の一念だ」と主張するのは、明らかな間違いです。