3月10日の大導師以上座談会の内容について、前回書きました。
アシスタント「苦しみの根源がお金だという人は悪知識だが、苦しみの根源が無明の闇だと教えるのは真の知識である」
それは、真の知識ではない。
http://blog.livedoor.jp/skai_as/archives/24653037.html
「私たちが助からないのは、弥陀の本願を疑う一つである」と教えるのが真の知識だと親鸞聖人が教えられている通り。
真の知識は疑情一つだと教える。
後生くらい心、無明の闇によって助からないと教えるのは真の知識ではない。
と高森会長が言ったそうです。
今まで「苦悩の根元=無明の闇=疑情=後生くらい心」と聞かされてきた現役会員は動揺しているそうです。
実際上記のような等式は成立しないことは、「疑情≠無明の闇というのは私にとって驚愕でした。今までずっと二つの心はイコールだと思っておりました。そうすると無明の闇というものがなんなのか分からなくなってきたのですが、弥陀に救われると無明の闇もなくなるんですか?」(KYさんのコメント) - 安心問答(浄土真宗の信心について)にも書きました。今回は、忙しい現役会員の人のためにさらに、短くまとめたものを書きます。
1.疑情=無明の闇
これは成り立ちます。
2.無明の闇(煩悩・無知)=後生くらい心(死んだらどうなるか判らない心)
これも成り立つことは成り立つのですが、この場合、無明の闇の意味は疑情ではありません。
3.無明の闇(疑情)≠後生くらい心
これは言葉の意味からそうなります。本願疑惑心は死んだらどうなるか分からない心ではありません。
よって
4.疑情=無明の闇(本願疑惑心)|無明の闇(煩悩)=後生くらい心
とはなりますが
5.疑情=無明の闇=後生くらい心 は成り立ちません。
ご覧になったらわかるように、(1)と(2)が成り立つからといって(5)のように疑情=無明の闇=後生くらい心 は成り立たないのは当然です。(1)と(2)がなりたつから(5)が成立するということはありません。言葉の意味が違うからです.その言葉の意味を巧妙に変えて、会員に間違った教えを説き続けてきたのが高森顕徹会長です.
「今度こそはもっと詳しいことが聞ける」と富山に足を運んだり、ネット中継の座談会に足を運ぶ会員の方は、今回の事を通してそれはかなわない夢であるということ知ってください。
私が親鸞会にいたころは「死んだらどうなるか分からない不安な心があります。この心をなんとかしないと助からない」と言われる方に何人も会ったことがあります。その「後生くらい心」の解決のために富山まで足を運んでいた人たちは、今回の高森会長の話で完全にはしごを外された形になりました。しかし、これも高森会長から離れて、本当に阿弥陀仏の本願を阿弥陀仏から聞くご縁になればよいと思います。
参考 親鸞会公式のネット情報より
これまで「疑情=無明の闇=後生くらい心」と高森会長は言ってきました。そのためネット上の親鸞会公式サイトやブログにもそう書いてあるので、参考資料として転載します。
(5)苦しみの根元は、無明の闇
では、疑情とは何だろうか。
これは、「無明」とも「無明の闇」ともいわれる。「後生暗い心」のことである。 「後生」とは、死後のこで、「暗い」とは、ハッキリしないことをいう。経済、医学に暗い、といえば、それらのことがよく分からない、という意味である。
つまり、「後生暗い心」とは、死んだらどうなるかがハッキリ分からない心である。 「無明の闇」とは、この「後生暗い心」だけをいうのだ。(無明の闇を晴らす 阿弥陀仏の本願力)親鸞会公式サイトより
さて、今日のテレビ座談会の質問は『なぜ生きる』のp131に、
苦悩の根元は「無明の闇」と教える「真の知識」は、雨夜の星といってもいいのではなかろうか
とあります。親鸞聖人はハッキリと苦悩の根元は無明の闇であると教えておられるのに、どうしてそう教える真の知識が雨夜の星なのかという質問でした。
(親鸞会のテレビ座談会で苦悩の根元を聞く | ビジュアルで発信する -親鸞会 イミズム-