親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

3月10日大導師以上座談会で高森顕徹会長が「私は悪知識」と告白した件

3/10大導師以上座談会の内容 (かなり推測) : あさ川進の、宗教と私を読みました。
以下、思ったことを書きます。

感想を一言でいうと、「高森会長がなぜ生きるに書いた騙しの手口を公開した」です。さらに言えば「自らが悪知識であると告白した」といったところです。

以下、上記のブログからの引用です。

アシスタント「苦しみの根源がお金だという人は悪知識だが、苦しみの根源が無明の闇だと教えるのは真の知識である」


それは、真の知識ではない。
「私たちが助からないのは、弥陀の本願を疑う一つである」と教えるのが真の知識だと親鸞聖人が教えられている通り。
真の知識は疑情一つだと教える。
後生くらい心、無明の闇によって助からないと教えるのは真の知識ではない。

http://blog.livedoor.jp/skai_as/archives/24653037.html

なぜ生きる

なぜ生きる

「なぜ生きる」(高森顕徹著)には、苦しみの根源は無明の闇であり、無明の闇は後生くらい心だと書いてあります。また、苦しみの根源は疑情とも書いています。


そこで、3月10日大導師以上座談会でアシスタントが「苦しみの根源が無明の闇だと教えるのは真の知識である」と言ったのも当然のことです。なぜなら、高森会長は今までもそのように話をしてきたからです。


簡単に言えば
無明の闇=後生くらい心=疑情=苦悩の根源
という図式が、ほとんどの親鸞会会員の頭に入っていたと思います。そのため、今回の座談会の参加者が、「後生くらい心、無明の闇によって助からないと教えるのは真の知識ではない」の高森会長の言葉に衝撃を受けたのは容易に想像できます。


疑情とは、元々「本願疑惑心」であって、阿弥陀仏の本願を疑う心です。それが、イコール「後生くらい心」(死んだらどうなるかわからない心)とはならないのは当然です。
しかし、疑情(本願疑惑心)は、本願を聞かない人には出てこない心です。したがって、高森会長がいつも本願を説かない以上、会員にとっては何のことだかさっぱりわからない心です。


高森会長は本願(18願)の生起本末を話することはありません。こういうと、「いや、私は聞いたことがある」と反論されるかもしれません。そういう方の為に説明しますと、「19願を通らねばならない」とか「実機が知らされねば救われない」と説くことは、本願を説いているとはいえません。


18願の生起本末とは、自分の力ではとても生死を離れることができない私をあわれに思われた阿弥陀仏が、本願力一つで救う、ただ今救うと誓われ、その願が成就して南無阿弥陀仏となられて私につねに現在喚びかけておられる。その仰せをそのまま聞いて念仏するものは必ず浄土往生する身にただ今救われ、浄土往生し成仏するというものです。


ただ今救う、ただで救う本願と聞くからこそ、迷いの深い私は本願を疑う心になるのです。しかし、高森会長は「19願を実践しなければ、横の線を進まなければ」「救われることはない」と常に言っています。それを聞いている会員で、その会長のいうところ三願転入に「疑い」を持っている人はいるでしょうか?「何か変だな」と思うことはあっても、すぐに「いや、命がけで横の線を進まねば」と思っている人が、大導師以上座談会参加者なら大半だと思います。


高森会長は、本願を説かないです。したがって、参加者には疑情と言ってもピンともきません。そこで、なぜ生きるという本では、「後生くらい心があるでしょう」(これは誰でも心当たりがあります)「それが苦悩の根源だ」と前ふりをして、「苦悩の根源は疑情だと親鸞聖人は言われている」と書くことで、「後生くらい心(死んだらどうなるか判らない心)」があたかも「疑情」であるかのように、ミスリードをしています。


ミステリー小説ならば、ミスリードを作者が意図して書いたとしても、最後に種明かしをするので読者は「やられたぁ」「そうだったのか」と納得をします。有名なところでは、アガサ・クリスティーの「アクロイド殺し (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)」などがそれにあたります。しかし、この「なぜ生きる」はミスリードのまま終わるので、非常に悪質です。まさに悪知識の書です。


そこで、ミスリードの結果、今回の座談会のアシスタントを含め「衝撃を受けた」参加者は日ごろ高森会長によってどのように間違った教えを聞いているのかがよくわかります。


どう理解しているかというと、「後生くらい心(死んだらどうなるかわからない心)」が「疑情」であるから、阿弥陀仏に救われると「後生明るい心(死んだらどうなるかハッキリする心)」になると思っています。ただ、親鸞会会員が考える「後生明るい心」は、御文章にある「後世を知るを智者とす」とは意味がことなります。


「死んだらどうなるか判らない心」現状に対して「死んだらどうなるかハッキリする心」と言えば、「浄土が判る」あるいは「何かとんでもないことがハッキリと知らされる」という一念覚知や一益法門の異安心になります。


「後世を知るを智者とす」と御文章に言われるのは、本願の仰せに従ったということであり、私に何かしら菩薩のような智慧がみについてということではありません。


最後に、ではなぜこのようなミスリードをわざわざ高森会長はするのかについて書きます。
一言で言えば、18願を説かずに、19願の勧めしかしない「悪知識」である自分を「善知識」と会員に思わせるためです。それ以外には何もありません。


このエントリーを読まれて「本願に対する疑い」と言われてもピンと来ない方は、読まれた貴方が親鸞会で言う「宿善薄い」からではありません。単に高森会長が本願を説かないから、聞いたことがないだけです。本願に対する疑いなのですから、本願を知らなければ疑いもありません。


今回高森会長は、自分が悪知識であるということを告白しました。疑情でないものを疑情と、大多数の会員に思わせていたことが、何よりの悪知識の証拠です。

当日の座談会で、奇しくも高森会長が言っています。

『なぜ生きる』も細心の注意を払ってそのように書いた。

http://blog.livedoor.jp/skai_as/archives/24653037.html

スリードするように細心の注意を払って書いた確信犯だということです。


滝つぼにむかって真っ逆さまなのは、悪知識が船頭になっている船です。乗り換え時は、今です。