親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

信の一念の自覚と、親鸞会でよくつかうアニメ「世界の光親鸞聖人第一部」親鸞聖人獲信の場面について

水さんよりコメントを頂き有り難うございました。
親鸞会のアニメに関する内容にも触れるエントリーなので、こちらに公開しました。

2013/03/02 17:58
ご回答有難うございました。
獲信の日時の記憶の有無によって信心をはかるのは間違い、というのはよく分かるのですが、信心決定の一念はその時自覚する人もいれば、数日後に自覚する人もいるのでしょうか。
どうしても親鸞会発行のアニメ第一部の獲信の場面の印象が強く、分秒にはかからないものの、信の一念の自覚はその時にハッキリ分かるものだと思っていました。
この理解は間違いでしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20130302/1362197109#c1362214686

まず、信の一念は時剋の極促といわれる以上、人間の認識の乗るような速さではありません。
「救われた自覚がある」と救われた人が感じたとしてもそれは一念の後ということになります。ではそれが、信の一念のどれだけあとなのかという点については、確認のしようがありません。なぜなら、「救われた」とその人が自覚した時にはすでに救われた後(信の一念の後)になるからです。


その信前信後の水際の自覚があるかないかということは、あまり詮索しても自覚がない以上は意味がありません。現在ただ今本願を聞いて疑い無いということが信心です。それがいつだったからということが判っていても判っていなくても、ただ今本願を疑い無く聞いて念仏しているということが大事です。その一念の自覚や記憶がないのだから、ただ今助けるの本願が疑いありますと言われるのであれば、それは一念の自覚と関係なく本願を疑っているということになるか、親鸞会のアニメですり込まれたイメージがそれだけ強力だということです。



映像による刷り込みというのは、見ている人の意識に強力に働きます。親鸞会でよく使われているチューリップ企画の世界の光親鸞聖人第1部の最後と、第3部の冒頭に親鸞聖人の獲信の場面がでてきます。浄土真宗のことを知らない人が、このアニメを最初に見るとまず間違いなく一念覚知が親鸞聖人の教えだと思ってしまいます。なぜこのような表現になっているかと言えば、高森会長自身が信の一念をそのようなものだと常に話をしているからです。

参考:チューリップ企画「世界の光 親鸞聖人」より親鸞聖人獲信の場面

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f:id:yamamoya:20130303053801p:plain「苦しまれる親鸞聖人」
f:id:yamamoya:20130303053820p:plain「はっ!!」となる
f:id:yamamoya:20130303053835p:plain「いきなり立ち上がり」
f:id:yamamoya:20130303053853p:plain「念仏される」


親鸞会はこのようなアニメを作る一方で、公式サイトにもそれは間違いということも書いています。

○信心獲得を強調する。
 勿論これは、間違いではない。親鸞聖人の教えは「唯信独達の法門」、蓮如上人も「聖人一流の御勧化の趣は信心をもって本とせられ候」「あわれあわれ存命の中にみなみな信心決定あれかし」と仰せのとおり、「信心」の強調のし過ぎはない。

 だが、「信心獲得」を強く勧めると、「では、どうすれば獲信できるのか」という焦りから、いろいろのことが問題になり詮索されるようになってくる。

○いつ獲信したか。
「私は何年何月何日のいつ頃に獲信した」と、獲信の年月日時を問題にするようになった。
三業惑乱から学ぶ・両極に振れる自力の本性|浄土真宗 親鸞会公式サイト

平たく言えば一念覚知は間違いと親鸞会は公式サイトに書いています。その一方で、一念覚知にしか見えないアニメを各地で上映して、現在はアニメ弘宣という活動に力を入れています。


大上段に構えていても、批判を受けるたびに手のひら返しで正反対のことを言うのが親鸞会です。どちらにしろ、浄土真宗の教え、阿弥陀仏の本願について「親鸞会ではこう聞いたが」というのは全て間違いというゼロベースに頭をリセットしてから、親鸞聖人の書かれたものや蓮如上人のかかれたものによって聞かせて頂くことが大事です。