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親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

聞法善を積みなさいとは、阿弥陀仏もお釈迦さまも勧められていません(顕正新聞平成25年1月1日号より)

顕正新聞 親鸞会機関誌より 善のすすめ

元会員から見た浄土真宗親鸞会 |白道とは、聞法心・聞法善、廃悪修善のこと?????にも紹介されていましたが、私も気になった所なのでエントリーとして書きます。

顕正新聞平成25年1月1日号に以下の記事が掲載されていました。

全て釈迦弥陀のご方便 富山県(親友部*1

(略)
白道」で示されるのは、聞法心・聞法善であり、廃悪修善も収まると教えて頂きました。合点にとどまっていては、信仰は進みません。アニメ弘宣も、翻訳大事業も与えていただいた全ての勝縁は、釈迦弥陀の善巧方便です。(顕正新聞平成25年1月1日号(16)法友通信 12月2日の二千畳ご法話に参詣した法友からの手紙です)

まず、阿弥陀如来は「聞法善を積め」とはいわれていません。それは、法然上人の選択本願念仏集にも言われていることです。

弥陀如来、余行をもつて往生の本願となさず、ただ念仏をもつて往生の本願となしたまへる文。(選択本願念仏集・本願章:浄土真宗聖典―註釈版 (七祖篇)P1201)

http://goo.gl/eiYiN

阿弥陀如来は、私がするあらゆる行は往生に必要ないという本願を建てられました。ただ、阿弥陀如来が選び取られた念仏一つをもって往生するという本願を建てられました。


では、なぜ阿弥陀如来は私がする行(いわゆる六度万行をふくめたあらゆる善)を必要とされなかったのでしょうか?法然上人は、その理由の一つとして、六度万行に代表されるいろいろな行は難しくできない人も多いが、念仏は易しい行であるからだといわれています。


少し長いので区切って紹介します。

念仏は易きがゆゑに一切に通ず。諸行は難きがゆゑに諸機に通ぜず。

http://goo.gl/j9qFh

念仏は諸行に比べて易しいので、どんな人にも通じる行です。諸行は難しいので、あらゆる人に通用しないものです。


しかればすなはち一切衆生をして平等に往生せしめんがために、難を捨て易を取りて、本願となしたまへるか。(選択本願念仏集・本願章_難易義浄土真宗聖典―註釈版 (七祖篇)P1209)

http://goo.gl/j9qFh

それならば阿弥陀仏は全ての人を平等に浄土往生させるために、難しい行を捨てて易しい念仏を選ばれて本願を建てられと思います。


もしそれ造像起塔をもつて本願となさば、貧窮困乏の類はさだめて往生の望みを絶たん。しかも富貴のものは少なく、貧賤のものははなはだ多し。(同上)

http://goo.gl/j9qFh

「造像起塔」は、現在の親鸞会で言えば各地の会館建立です。各地に会館が建設されていますが、「会館建立功労賞」をもらっている人は各地の会員でもごく少数です。もし、会館建設に多大な貢献をしないと助からない本願であるならば、助からない人の方が多くなります。


もし智慧高才をもつて本願となさば、愚鈍下智のものはさだめて往生の望みを絶たん。しかも智慧のものは少なく、愚痴のものははなはだ多し。もし多聞多見をもつて本願となさば、少聞少見の輩はさだめて往生の望みを絶たん。しかも多聞のものは少なく、少聞のものははなはだ多し。(同上)

智慧が優れていたり、あるいはたくさん法を聞く機会にあう人が救われるのであるならば、親鸞会で言えば教学試験に合格したり、富山県に住んでいる人が救われることになります。しかし、全会員をみても、教学試験に合格し大講師認定される人は少数*2で、富山県の会員といっても多数派ではありません。もし、そうでなければ救われない本願ならば、救われない人の方が多数になります。
f:id:yamamoya:20130122174348p:plain(顕正新聞平成25年1月15日号より)


もし持戒持律をもつて本願となさば、破戒無戒の人はさだめて往生の望みを絶たん。しかも持戒のものは少なく、破戒のものははなはだ多し。自余の諸行これに准じて知るべし。(同上)

もし戒律を守った浄土往生できるという本願ならば、戒律とを守れないひとは往生できなくなります。しかも、戒律を守れる少なく、守れない人はずっと多いです。ほかの行についてもこれに準じて知るべきといわれています。


まさに知るべし、上の諸行等をもつて本願となさば、往生を得るものは少なく、往生せざるものは多からん。しかればすなはち弥陀如来、法蔵比丘の昔平等の慈悲に催されて、あまねく一切を摂せんがために、造像起塔等の諸行をもつて往生の本願となしたまはず。ただ称名念仏一行をもつてその本願となしたまへり。(同上)

親鸞会の人にあてはめていうと、上記のように会館を建てたり、富山にかかさず参詣したり、アニメをたくさん見たり、教学試験に何回も合格して大講師認定を受ける人から助ける本願ではないということです。もし、そんな本願であるならば、浄土往生する人は少なく往生できない人が大多数になります。法蔵菩薩は本願を建立されるとき平等の慈悲によって、全ての人を救う為に念仏一つで救うという本願を建てられました。


では、聞法することは意味がないのかという疑問を持たれるかたもあると思います。聞法とは、阿弥陀仏の本願を聞くことです。阿弥陀仏の本願はすでに成就しているものですから、「助けてもらうために聞く」のではなく、「お前を助けるぞ」の法を聞くのが聞法です。法を聞くのがなにかの善となり、救いの手助けになると思うのは間違いです。

浄土真宗聖典―註釈版 (七祖篇)

浄土真宗聖典―註釈版 (七祖篇)

*1:親友部…親鸞会の事務職員

*2:大講師…親鸞会指定の講師試験5回合格者。顕正新聞平成25年1月15日号では今回認定者は40名