親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

「方便破壊せしものは」のご和讃の「方便」についてのコメントまとめ

以前書いたエントリーの「如来の遺教を疑謗し 方便破壊せしものは」の和讚について、現在進行中のコメント欄でのやりとりです。
別のエントリーにしてほしいという要望がありましたので、話題を整理するためにこちらにエントリーを書きました。「方便破壊」の方便については、以後こちらのコメント欄でお願いします。

そらまめ
かぼちゃ様
 コメントありがとうございます。「方便」について説明してくださるとのことですが、私は、「如来の遺教を疑謗し・・」の御和讃の前半の意味を確認したいのです。新聞に本当に間違った教義が掲載されていたのか、それとも新聞の内容も正しいと言えるのかを知りたいからです。ですから、部分的に教えてくださるのであれば、「方便破壊」の「方便」が、文法、この和讃でのつかわれ方、親鸞聖人の他の御著書との関係といった観点からみて、「破壊」の目的語と解釈するべきなのか(方便を破壊)、修飾語(方便して破壊)と解釈するべきなのか、どちらが適切であるのかをまず教えていただけないでしょうか。
1日前


海月
かぼちゃさん、私の拙いコメントにお返事を頂き、感謝申し上げます。
>礼を尽くされているとのことですが、そうは思えません。なぜなら、コメントの文面を見る限り、質問ではなく問題形式になっていると思います。そもそも問題というのは、例えば先生が生徒に課して実力を測るものであると思います。海月様が先生で私(かぼちゃ)が生徒なら問題ないと思いますが、いかがでしょうか。

最初のコメントにも書きましたが、古文法に大変お詳しく私はかぼちゃさんの足元にも及ばないので感心しきりです。
私が先生でかぼちゃさんが生徒とは、御冗談のうまさにも感心しました。
私がコメントをしましたのは、ソイさんがmixiでの三願転入の法論の経緯を教えて下さいまして、高森先生、講師の先生方がお答えになられなかった質問について知りました。そこで軽率な私は、高森先生でさえお答えになれらなかった質問が未だに存在していることから、三願転入の法論は決着したと判断してしまいました。私も答えることができません。
ところが、かぼちゃさんは三願転入については議論は長くかかると仰ったものですから、その質問に対してのお答えを、当然ながらお持ちと思いまして、質問した次第です。
生徒のわからない問題を先生に質問するのが、自然な流れと存じます。
ただし、私はかぼちゃさんのように人格者ではございませんので、非礼の点がございましたならば、御容赦ください。
かぼちゃさんが御多忙なことは、過去のコメントを読ませて頂いておりますので、よく存じております。
しかし、ことは後生の一大事です。
後生の一大事解決するには、三願転入の問題は避けて通ることのできないことです。
古文法にも大変お詳しく、教学にも優れ、人格者でもあり、破邪顕正せざるものは仏弟子に非ずを実践なされるかぼちゃさんに、なんとしても御教示頂きたく、切に切に、重ねてお願い申し上げます。

解説も要りませんので、下線部のみ埋めて頂くだけでございます。


1.「如来の遺教を疑謗し…」の御和讃をyamamoyaさんが示された解釈以外の解釈をされるのであれば、根拠を挙げられた上で、具体的にあなたの解釈を仰ってください。
この和讃の「方便」の意味は________
その根拠は、親鸞聖人の御著書______で
そのお言葉は_______________



2.三願転入の法論は終了しています。その際の質問に、代わりに答えてください。
「三願転入の教え」があるなら、親鸞聖人のお言葉を出してください。
親鸞聖人が三願転入の教えと仰った御著書は________で
そのお言葉は_______________



3.19願を勧められたお言葉がなければ、三願転入は始まりませんが、親鸞聖人が19願を勧められたお言葉を出してください。
親鸞聖人が19願を勧められたお言葉がある御著書は___________で
そのお言葉は_______________
8時間前



かぼちゃ
そらまめ様
コメント有難うございました
それでは、私ができる範囲でご質問に回答致します。
御和讃の「方便破壊」が「方便を破壊する」と読めるかどうかについてですが、調べてみましたが、結論から言えばはっきりとはわかりません。
例えば、「自愛」をいう言葉があります。この語句は自らを愛するという意味だと思いますが、「愛自」とは書きません。(新訂 漢文法要説 西田太一郎著 四〇頁)
また、語句の転置(倒置)という用法があるので、「方便破壊」という語順のみで意味を間単には断定できないと思います。
次に「方便」について根拠も論理も不十分かつ誤っている部分もあるかもしれませんが書かせて頂きます。
まず、仏教には、有為と無為という用語があるのでそれを説明させて頂きます。
有為:「因縁和合の作用によりて造られたるを以って有為と名づけたのである。」
(真宗大辞典 一三五頁)
無為:「有為に対する語。因と縁とが和合して生成したる万象を有為法と称し、之に対して因縁和合の作用に依らずして自存する真理を無為法と呼ぶ。有為の万象は生滅変化あれども無為の真理は生滅変化なきものである。」(真宗大辞典 二〇四三頁)
次に、唯信鈔文意には、
「涅槃」おば滅度といふ、無為といふ、安楽といふ、常楽といふ、実相といふ、法身といふ、法性といふ、(中略)法性すなはち法身なり。法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたへたり。この一如よりかたちをあらわして、方便法身とまふす御すがたをしめして、法蔵比丘となのりたまひて、不可思議の大誓願をおこしてあらはれたまふ御かたちをば、世親菩薩は尽十方無碍光如来となづけたてまつりたまへり。
ここから、考えられることは無為と有為(方便)の関係にあるように思います。
(ただし、ここでの有為は無為から出ていると考えます)
そうすると、無為と対に考える限り、例えば十八願文のみを限定して善巧方便とは考えられないと思います。なぜなら、十八願文も十九願文も二十願文も言葉であることには変わりなく、また言葉自体は因縁により造られたものであると思うからです。
それよりもむしろ、仏教全体を善巧方便と考えたほうが自然だと思います。
すると、無為涅槃に対して仏教(善巧方便)があり、
仏教(善巧方便)の中に、弥陀の真実の願と方便の願があり、
方便の願を権仮方便というのではなかろうと考えます。
つまり、1無為と2十八願と3十九願二十願の三つが対することはないように思います。
無為の立場から見れば十八願も十九願も二十願も言葉であります。ただし、三願で見れば真実の願と方便の願で対にすることはできると思います。
因みに、真宗大辞典の一九四〇頁には、方便について二種の意義があり、一つは権仮方便、二つには、あらゆる仏教は皆方便とあります。
まとめると、善巧方便は仏教全体、権仮方便は方便願をあらわすと思います。
ここで、一応「方便破壊」に関する自分の感ずるところを書かせて頂きました。
私としては勉強中の身でして「方便破壊」を解釈するよりも先にやりたいことがあります。よって十分回答になっていないかもしれませんがこれでご容赦下さい。
8時間前


ソイ
やっと一つ回答しましたね。
方便の説明ではないんですよ。御和讃の「方便破壊」の「方便」の意味です。
西方指南抄に
見有修行起瞋毒 方便破壊競生怨 如此生盲闡提輩 毀滅頓教永沈淪
超過大地微塵劫 未可得離三途身 大衆同心皆懺悔 所有破法罪因縁
この文の心は、浄土をねがひ、念仏を行する人をみては、毒心をおこし、ひがごとをたくみめぐらして、やうやうの方便をなして、専修の念仏の行をやぶりあだをなして、申とどむるに候也。かくのごとくの人は、むまれてより仏性のまなこしひて、善のたねをうしなへる、闡提人のともがらなり。この弥陀の名号をとなえて、ながき生死をはなれて、常住の極楽に往生すべけれども、この教法をそしりほろぼして、この罪によりてながく三悪道にしづむとき、かくのごときの人は、大地微塵劫をすぐれども、ながく三途の身をはなれむこと、あるべからずといふ也。(真宗聖教全書4_P170 西方指南鈔 巻中末_12.二位の釈尼に答ふる書)

法然上人は「やうやうの方便をなして、専修の念仏の行をやぶりあだをなして」と仰っていますから、かぼちゃさんの意味で仰っていないことは、誰の目にも明らかです。
何でも答えればいいのではないですよ。
完全な見当はずれ。
善導大師も親鸞聖人も、法然上人同様に、
「さまざまな方法手段を用いて、念仏の行を破壊する」
という意味で解説なされています。
それを否定するだけの根拠を出さなければ、なんのための回答ですか?

それと三願転入の2つの質問は、どうなりました?
7時間前


ソイ
親鸞聖人御消息

そのゆえは、釈迦如来のみことには、念仏のひとをそしるものをば、「名無眼人」ととき、「名無耳人」とおおせおかれたることにそうろう。善導和尚は、「五濁増時多疑謗 道俗相嫌不用聞 見有修行起瞋毒 方便破壊競生怨」(法事讃)と、たしかに釈しおかせたまいたり。この世のならいにて、念仏をさまたげんひとは、そのところの領家・地頭・名主のようあることにてこそそうらわめ。とかくもうすべきにあらず。念仏せんひとびとは、かのさまたげをなさんひとをば、あわれみをなし、不便におもうて、念仏をもねんごろにもうして、さまたげなさんを、たすけさせたまうべしとこそ、ふるきひとはもうされそうらいしか。よくよく御たずねあるべきことなり



詮ずるところ、ひがごともうさんひとは、その身ひとりこそ、ともかくもなりそうらわめ、すべてよろずの念仏者のさまたげとなるべしとは、おぼえずそうろう。また、念仏をとどめんひとは、そのひとばかりこそいかにもなりそうらわめ、よろずの念仏するひとのとがとなるべしとは、おぼえずそうろう。「五濁増時多疑謗 道俗相嫌不用聞 見有修行起瞋毒 方便破壊競生怨」(法事讃)と、まのあたり善導の御おしえそうろうぞかし。釈迦如来は、「「名無眼人、名無耳人」と、とかせたまいてそうろうぞかし。かようなるひとにて、念仏をもとどめ、念仏者をもにくみなんどすることにてもそうろうらん。それは、かのひとをにくまずして、念仏を、ひとびともうして、たすけんとおもいあわせたまえとこそ、おぼえそうらえ


かぼちゃさんは、御消息も知っているでしょうに。なぜ、善導大師、法然上人、親鸞聖人が仰ったことと違う解釈をしようとするのか。
その意図は、高森会長と親鸞会を擁護したい、の一心としか思えないでしょう。そのために、yamamoyaさんの揚げ足を取れるところを必死になって探した。
違いますか?
7時間前



親鸞会
『法事讃』
世尊法を説きたまふこと、時まさに了りなんとして、慇懃に弥陀の名を付属したまふ。五濁増の時は多く疑謗し、 道俗あひ嫌ひて聞くことを用ゐず。修行することあるを見ては瞋毒を起し、方便破壊して競ひて怨を生ず。かくのごとき生盲闡提の輩は、頓教を毀滅して永く沈淪す。

このお言葉について
『西方指南鈔』
浄土をねがひ、念仏を行する人をみては、毒心をおこし、ひがごとをたくみめぐらして、やうやうの方便をなして、専修の念仏の行をやぶりあだをなして、申とどむるに候也。

親鸞聖人御消息』
この世のならいにて、念仏をさまたげんひとは、そのところの領家・地頭・名主のようあることにてこそそうらわめ。
かようなるひとにて、念仏をもとどめ、念仏者をもにくみなんどすることにてもそうろうらん。

と仰っています。
「方便破壊」についてまとめると
善導大師--種々の方法を用いてうちやぶる
法然上人--種々の方法を用いてうちやぶる
親鸞聖人--種々の方法を用いてうちやぶる
かぼちゃさん--「方便を破壊する」と読めるかどうかについてですが、調べてみましたが、結論から言えばはっきりとはわかりません

かぼちゃさんが、善導大師、法然上人、親鸞聖人を踏みにじって、独自の解釈をしようと試みていることは明明白白です。
ちなみに、教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』の補註15
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方便とは、仏が衆生を救済するときに用いられるたくみな方法(てだて)をいう。その中に真実と権仮とがある。真実の方便とは、仏の本意にかなって用いられる教化の方法で、随自意の法門をいう。それは、大智を全うじた大悲が巧みな方法便宜をもって衆生を済度されるというので、善巧方便ともいう。阿弥陀仏を方便法身というときの方便がそれである。
権仮方便とは、未熟な機は直ちに仏の随自意真実の法門を受けとれないから、その機に応じて、仮に暫く誘引のために用いられる程度の低い教えをいう。機が熟すれば真実の法門に入らしめて、権仮の法門は還って廃せられる。このように暫く用いるが、後には還って廃するような随他意の法門を権仮方便という。「方便化身土」といわれるときの方便がそれである。
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つまり真宗における善巧方便と権仮方便
善巧方便--随自意の法門
権仮方便--随他意の法門
親鸞聖人は信巻別序において
それおもんみれば、信楽を獲得することは、如来選択の願心より発起す。真心を開闡することは、大聖矜哀の善巧より顕彰せり。
と仰っているのは、18願を善巧方便と位置付けられ一方で化土巻において
これによりて方便の願(第十九願)を案ずるに、仮あり真あり、また行あり信あり。願とはすなはちこれ臨終現前の願なり。行とはすなはちこれ修諸功徳の善なり。信とはすなはちこれ至心・発願・欲生の心なり。この願の行信によりて、浄土の要門、方便権仮を顕開す。
とされて19願を権仮方便と位置付けられています。
三願でいえば、
善巧方便--随自意の法門--18願
権仮方便--随他意の法門--19願・20願
これが真宗の常識です。
0分前

http://shinrankaidakkai.hatenablog.com/entry/2012/09/11/174217#comment-12704830469096407301