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親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

「名号のいわれ」のタイトルで、名号のいわれを書かない「静かな劇場」

仏願の生起本末 静かな劇場

静かな劇場が更新されていました。ますます誰に向けて話を書いているのかよくわからない文面でした。

「退会者」「親鸞会を批判するもの=今の真宗会」といつもひと括りに考えているので文面もそのようになっています。親鸞会にとって「敵か味方か」と世の中の人間を二元論でしか考えられなくなるもの仕方のないことだと思います。過去の私もそのように考えている時がありました。「今の真宗界」に向けての問題定義なのか、それとも親鸞会を批判する人たちに向けているのかわかりませんが、後者とみなしてエントリーを書いてみます。

今回の「静かな劇場」は「名号のいわれ」というタイトルで、仏願の生起本末について書いているのですが、説明が間違っています。

ほかにもいろいろと思うところは有りますが、分かりやすいこの点についてエントリーを書きます。

結論から言いますと、「静かな劇場」の説明は、「仏願の生起本末」ではなく「仏願の生起本」(末がない)であり、「名号」はあっても「いわれ」がない話です。

静かな劇場では

名号のいわれを、『教行信証』には次のように詳述されて
います。

一切の群生海、無始より已来、乃至今日・今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心無く、虚仮諂偽にして真実の心無し。ここを以て、如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫に於て、菩薩の行を行じたまいし時、三業の所修、一念・一刹那も清浄ならざる無く、真心ならざる無し。如来、清浄の真心を以て、円融・無碍・不可思議・不可称・不可説の至徳を成就したまえり (教行信証
名号のいわれ - 静かな劇場

http://blog.goo.ne.jp/345shigure/e/158d85c68d4a6e6cd9140f07dc8a4c82

これが仏願の生起本末(名号のいわれ)(同上)

といっていますが、違います。

高森顕徹会長が今まで話した仏願の生起本末の解説がころころ変わるので、講師部員歴約30年のこの管理人でも「仏願の生起本末」を知らないということがよく分かります。

上記に書かれた。

一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。
ここをもつて如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、一念一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。如来、清浄の真心をもつて、円融無碍不可思議不可称不可説の至徳を成就したまへり。(教行信証信巻・三心一心問答の法義釈・至心釈より)

まででは、「仏願の生起本末」でいえば「仏願の生起本」であって「末」がありません。(こんな言い方はありませんが、説明のために書いています。)

仏願の生起本末で言えば、生起にあたるのが

一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。

http://1y3.1s.sl.pt

です。清浄の心も真実の心もない私を救うと阿弥陀仏は本願を建てられました。

では、阿弥陀仏はどのように私を救ってくださるのかというのが、「本末」です。
そこで、南無阿弥陀仏を成就してくださり、私に差し向けてくださるというのが本末に当たる部分です。

しかし、静かな劇場では

ここをもつて如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、一念一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。如来、清浄の真心をもつて、円融無碍不可思議不可称不可説の至徳を成就したまへり。

http://1y3.1s.sl.pt

で終わっています。「名号が成就なされた__以上。」で終わっています。

その直後の

如来の至心をもつて、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したまへり。すなはちこれ利他の真心を彰す。

http://1y3.1s.sl.pt

がありません。
この南無阿弥陀仏(如来の至心)を、すべての煩悩悪業邪智のものに差し向けて施して下されるのという部分まで含めて、「仏願の生起本末」の「本末」です。

名号が成就なされたといっても、その南無阿弥陀仏は「私が受け取りに行かねばならないのか」それとも「阿弥陀仏の方から差し向け施してくださるのか」が抜けていれば「名号のいわれ」にもなりません。

上記にあげた仏願の生起本末を聞いて、

ゆゑに疑蓋雑はることなし。

http://1y3.1s.sl.pt

となったのが、「疑心あることなし」です。本願を疑い無く聞き入れた私の上でいわれる言葉が信心です。

静かな劇場にでていた御文章のご文で言えば
「南無阿弥陀仏の六の字のいわれをよくききひら」いたことです。


阿弥陀仏が私に名号を与えてくださる本願力回向のお働きが抜けているので、30年聞いていても「簡単に分かることではないことだけが、いよいよ分かってくるではないか。(`・ω・´)キリッ」と書いて平然としているのです。

静かな劇場の管理人さんに言いたいことは、

すべては名号の仏智を賜って、初めて知らされること。
(略)
簡単に分かることではないことだけが、いよいよ分かってくるではないか
名号のいわれ - 静かな劇場

と書くのは個人の自由ですが、それであなたご自身の後生はどうされるおつもりでしょうか?

「仏願の生起」のみ、または「生起本」を聞いて、「簡単にわかることではない」というのは、当たり前のことです。「仏願の生起本末」を聞いていないのですから、「仏願の生起本末を聞き手疑心あることなし」ということは、それこそ50年聞いてもあることなしです。