「静かな劇場」にコメント欄に書いても承認はされませんが、まともに取り合わないと言いつつエントリーに反論を書いてありました。今回の内容も、高森会長が日ごろ会員に言っていることと、それを機関誌に書いている講師部員がどのような理解をしているのかがよくわかるものになっていました。
相変わらずどこの誰に向けて書いているのか不明な文章ですが、とりあえず親鸞会退会者にむけて書いたものとして、気がついたことを指摘します。
弥陀の救いにあうには、まず、阿弥陀仏の本願の生起
http://blog.goo.ne.jp/345shigure/e/a692c6313edcf816ad7b5b92549a49ac
本末をきいて、よく納得することが大切なのです。
仏願の生起本末を聞いてもいない人に、疑心など起きよ
うもないですし、起きてもいない疑心に、晴れるという
こともまたないからです。(何に疑いが晴れるのか - 静かな劇場より)
「仏願の生起本末」をよく聞いて納得することが大事とあります。私はエントリーを書いた講師部員を知っていますが、本願に対する疑いを口にすることを聞いたことはありません。つまりは、本願を「よく納得」してないのです。
プロフィールをみると昭和37年生まれの「静かな劇場」は、今年50歳になる人です。大学生のときに親鸞会に入会していますから、会員歴30年以上です。親鸞会に入会して30年以上経っても、「本願をよく納得」していないのはなぜでしょうか?
その理由はは、「静かな劇場」さんのエントリーに書いてありました。
挙げれば枚挙にいとまがないが、これらは皆、
「地獄行きの極重悪人の我々」ということではないのか。それが認められない、そこに疑いがあるならば、
http://blog.goo.ne.jp/345shigure/e/a692c6313edcf816ad7b5b92549a49ac
それを「仏願の生起本末に疑心あり」というので、(同上)
つまり「地獄行きの私と思えない」のが、「静かな劇場」さんの定義する本願に対する疑いなのです。それは、言葉を変えれば「地獄行きの私と思えた」のが「本願に対する疑心あることない」ということになり、そうなると間違いなく「地獄秘事」です。
「ただ今必ず救う本願」に対する疑いを、本願に対する疑いというのであって、「地獄行きの私と思えない」のは本願に対する疑いではありません。
機を責めるばかりで、法がまったくないのが親鸞会講師部員の理解の特徴です。阿弥陀仏は「ただ今必ず救う」と呼びかけられています。それを「理解する」のに30年以上かかるのでしょうか?
「静かな劇場」さんに向けて最後に書きますが、30年以上聞いても助からないことをどこかで正当化していませんか?「なぜ助からないのか?」と思わずに「助からないのが当然」と思ったら、もう本願は聞けないでしょう。
貴方が本当に救われたいと思うのであれば、御文章を親鸞会教義を一回リセットして読んでください。自らの機を責めよと書いてはないのが御文章です。
このエントリーも「静かな劇場」さんのコメント欄に書きます。