親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

「同朋の里のダムはムダでした」顕真8月号巻頭言より

親鸞会機関誌顕真平成24年8月号を読みました。
以下が巻頭言です。
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親鸞学徒のムダの判断

車のハンドルの遊びを、ムダと見るか必要とみるか。
中国の古典に言う。
「人の践む地面はわずかだが、だからといってそれ以外を削ってしまえば、もはや地面としての用をなさない」
生きた出費がムダに映ったり、本当のムダが化粧していることもある。
なにがムダか難しいが、親鸞学徒は常に
親鸞聖人の教えの開顕により必要か、どうか」
で判断しなければならない。

いろいろな施設の建設や、弁当事業の展開など、外部の人はもちろん会員でも一体なんのために必要なのだろうか、会員の浄財をムダ使いしているのではないかという声に、会長が答えた文章のようです。

いつまでも続く親鸞会からの寄付の要求に現役会員の人のストレスは相当高まっています。
現在建設中のウェルカム弁当工場の工事現場には「ウェルカム一期工事」とあり、今後もまだまだ施設拡張をする気は満々のようです。

この巻頭言の「親鸞聖人の教えの開顕により必要か、どうか」で考えると、弁当事業もムダになります。弁当事業は「仏法が大事だから体が大事」とよくわからない言い訳をしていますが、それでも言い訳が立たない施設の代表が、同朋の里のダムとそのダム湖にかけられた彼岸橋です。
決して小さくない建築費を使ってダムを造るのがどうして、親鸞聖人の教えの開顕により必要なのかと考えれば、まったく必要はありません。全くダムはムダだったということになります。

しかし、全国各地、海外から人を集めて追悼法要でドタキャンをしてビデオ法話の上映をした正本堂こそ、まったくのムダ遣いです。ビデオ上映をするための施設に100億以上の浄財がはたして必要でしょうか。
まさに「本当のムダが化粧している」とはこのことだと思いました。