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親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

追記:疑心往生についてのコメントまとめ

疑心往生 コメントまとめ

前回のエントリーのコメント欄より、疑心往生についてまとまったコメントがありますのでエントリーにしました。(文字修正あり)

たかぼー
よく分かりません。誰か教えてください。
 凡夫には無明煩悩しかない。本願に対する疑情は無明煩悩が本願に向かったときに出てくるもの。つまり疑情の体は無明煩悩である。疑情は本願力によって退治される。疑情が退治されても無明煩悩は無くならない。では、疑情が無くなった分だけ煩悩は減ったと言えないのか? さぁーて。疑情の体が煩悩であるすれば、疑情が無くなったと言うことは煩悩がその分だけ減ったともいえるし、でも、煩悩が減ったと言えるほど減ったわけじゃないし。
 不勉強で勝手なことを言いますが、疑情が無くなった分だけ煩悩が減ったと言ってもいいように思えますが、どう説明するのがいいのでしょうか。誰か教えて下さい(そんな下らんことを問題とする方がおかしい、と言われれば、その通りですが、それは言わないとして)。
たかぼーのつぶやき
「最近、仕事しないで書き込む回数が増えたなぁ」


id:yamamoya
たかぼーさん
無明といった場合、いろいろな解説によれば以下の三つにするというものがあります。
1)煩悩を無明という(無明煩悩)
2)三毒の中の愚痴を無明という(痴無明)
3)仏智の不思議を疑う(疑無明、無明闇、疑情)
無明を、疑無明と痴無明に分けて、疑無明がなくなるけど痴無明は残るから、煩悩はそのままだという意見もあります。しかし、個人的にはあまりスッキリしないところです。説明上から言えばやはり減っているからです。
疑情と煩悩の関係について、私個人での思いですが、疑情というのは煩悩の一つと考えるのではなく、阿弥陀仏と私の関係性に名づけたものと説明するのがいいように思います。本願力回向によって関係性が「疑蓋間雑」から「疑蓋無雑(信順帰命)」に変わるだけで、煩悩そのものは、増えも減りもしない。
教学的にどうかといわれれば、無明の定義を(1)でいう場合にはこう言ってもいいのではないかと思います。


たかぼー
管理人様
早速のご回答、有り難うございました。ご回答に触れて、ふと、考えてみました。
凡夫の分別知は根本無明をもともとの生因とし、現に意識として働きだしているが、阿弥陀仏と私の関係性において、その分別知が働くことによって本願疑情が生じる。本願力によって疑情が退治されると言うことは、本願に対して分別知が働かなくなっている。つまり、本願に対しては分別知が機能しなくなっている状態に陥った。そう考えれば、分別知そのものは減りはしていないということになる。そうすると、分別知が煩悩の1つであるとしても、その煩悩自体は減らないで、本願に対してのみ機能していない、ということになる。
そういうことか。何となく分かった感じ。間違っていたら、教えてください。


夕顔
なるほど、いろんな書き方や言い方があって勉強になります(殊勝なことを言ってみる)
ぶっちゃけ、
・本願に対して起こる疑いを疑情
・あとは全部煩悩
ふたつあるんか?違います。そうよんでるのです。
「阿弥陀仏への疑い」これはどっち?
「阿弥陀仏の本願に対する疑い」はどっち?


夕顔

本願に対しては分別知が機能しなくなっている状態に陥った。そう考えれば、分別知そのものは減りはしていないということになる。そうすると、分別知が煩悩の1つであるとしても、その煩悩自体は減らないで、本願に対してのみ機能していない、ということになる。

機能しないものを逆に機能させようにかかっても機能しないなあ(・・;確かに・・


たかぼー
夕顔様
「阿弥陀仏への疑い」というのは、どういう疑いか分からないなぁ。そこで考えられる疑いを挙上すれば(重複している場合があります)、
① 阿弥陀仏が「存在しているか否か」に関する疑問。
② 阿弥陀仏の「摂取不捨の働き」についての疑い。
③ 阿弥陀仏の「大悲心」に対する疑い。
④ 阿弥陀仏は「釈迦が説いたものなのか」という疑問。
⑤ 阿弥陀仏は「浄土におられるのか」という疑問。
⑥ 阿弥陀仏に「姿・形はあるのか」という疑問。
⑦ 阿弥陀仏は「南無阿弥陀仏なのか」という疑問。
⑧ 阿弥陀仏は「何をする仏なのか」という疑問
⑨ 阿弥陀仏は「私と何か関係があるのか」という疑問。
他に考えつきますか?
一見して②③は疑情と言えそうですが、私は、その疑問の内容によっては②③も疑情ではないとも言えると考えています。 


夕顔
阿弥陀仏への疑いはなくなりません。
分別知は死ぬまでずっと。
雑多な性格だなあ自分。
他の方にも振ってみる。
阿弥陀仏への疑いはなくなるの?


夕顔
じゃ、何にも無いじゃないか!なんて声が聞こえてきそうな気がする
(誘導尋問てこういうやりかたなのかあ)
感動するなあ・・・・☆


夕顔
本願を信じ念仏している夕顔を助けるぞという仰せをはいと聞いているのが信心です。
はっきりしているのはこれだけです。


夕顔
連投すみません 朝でばたばた★~
◎本願を信じ念仏している夕顔を助けるぞ
 ここまでが(合点)
という
仰せをはいと聞いているのが信心です。


たかぼー
夕顔様
夕顔様のコメントのとおり、「分別知は死ぬまでずっと無くならない。」「仰せをはいと聞いているのが信心。はっきりしているのはこれだけ。」というのは、そのとおりだと私も思いますよ。まったく異論はありません。

たかぼーさんの書かれた、10項目の疑いも全部なくなると思っているのが、親鸞会にいる人のほとんどの考えです。そう教えているのが高森会長です。

しかし、阿弥陀仏の仰せをそのまま聞いている以外にはなにも変わりません。前回のエントリーも含めて、「疑い全部なくなる」と思い込んで続けている親鸞会会員の人が間違いに気がついて辞める人が一人でもあれば幸いです。


疑心往生に関連して、用管窺天記さんのエントリーにも最近書かれていたので、紹介します。
疑情 « 用管窺天記
疑ひながらも、念仏すれば、往生す « 用管窺天記

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