親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

親鸞会は、あくまで仮時で表現すると言われています。年月日時を覚えていなければ真実信心で無いとは言われていません。ただ一念の時に自覚も無いような漠然としたものだと言われていないだけですが?何か間違いですか。」(現役会員の質問)

親鸞会教学聖典7号38
(問)
土蔵秘事の異安心の特色を六つあげよ。
(答)
(中略)
信心を貰った年月日時に覚えがなければならぬ、とやかましく言う。
(後略)

親鸞会は、あくまで仮時で表現すると言われています。年月日時を覚えていなければ真実信心で無いとは言われていません。ただ一念の時に自覚も無いような漠然としたものだと言われていないだけですが?何か間違いですか。(現役会員の質問)

これは現役会員さんの誤解です。年月日時を覚えているかどうかが問題ではありません。一念の時に自覚がなければならないと言っているが、一念覚知の異安心だということです。


事実、過去に高森会長および親鸞会は、発行物に以下のように主張しています。

真実の信仰には一念がある。一念とは疑い晴れて大満足の境地に開発したいとおもいをいい(中略)いままで閉塞していた心中が開発して信楽と晴れ亘った一念、言説や思惟のおよぶところではない。驚天動地の一刹那をいうのである。しかし思慮分別を超えるといっても疑蓋無雑の信楽の開発する初起の信であるから、無念無想である筈は毛頭ないから、やはり明らかな自覚の初刹那を一念ととかれたのだ高森顕徹著_顕正P98)

阿弥陀仏の救いは断じて何時とはなしではない「今こそ明らかに知られたり」と驚き立つ一念の体験なのである。高森顕徹著_白道燃ゆP261)

このように「明らかな自覚の初刹那を一念ととかれたのだ」とか、「驚き経つ一念の体験なのでる」と、信一念の「自覚」の強調は、当然、「信心を貰った年月日時に覚えがなければならない」と言っているのに同じです。

信一念には必ず自覚があるという説は、一念覚知の異安心です。それは、一念と本願に疑心あることないと言われた親鸞聖人の教えとは違います。