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親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

「高森先生が善知識頼みの異安心ではなく、講師部員が悪いと考えることはできませんか?」(会員からの質問)

いろいろ批判ブログを見ました。

高森先生が善知識頼みの異安心では無く、講師部員が悪いと考える事は出来ませんか?高森先生は、自分に帰命せよとか自分に服従せよとか言われていません。言われていない以上善知識頼みの異安心とは言えない事になります。まわりが勝手に言っている事や思っている事まで責任は取れないと思います。

  1. 特定の知識(高森会長)しか、正しく法を説く人はいないと言っている
  2. 特定の知識の指導に従って行けば、救われると思っている。
  3. 知識(高森会長)は、教義的にも(人によっては)人格的にも、間違いのない人間であると思っている。(いわゆる生き仏であるかのように思う)

これらは、全てまわりが思ったという話ではないでしょうか。(現役会員からの質問)

現役会員の中には、このように思われている人も多いかと思います。しかし、それは間違いです。
元講師部員の私が、見聞きした範囲では、高森会長はハッキリと講師部員にむけて、以下のように言っているからです。思いついたまま、順不同に書いていきます。

  • 「上司(会長)の指示に絶対服従」
  • 「講師部を辞めるときは死ぬとき」
  • 「(辞めた講師部員に対して批判をしなかった講師部員全体にむけて)ワシがその場におったら、腕の一本や二本(折るくらい)ではすまなかった。その場に切るものがあったらあたりは血の海になっていただろう」
  • 「昔の日本軍は、上官の命は朕の命といわれて絶対服従だった、親鸞会はそれ以上に厳しい組織でなければならない」

他、多数似たような話は数え切れないほど高森会長の口から聞いています。

その「高森会長の御心を、正確に、速やかに、末端まで伝えるのが親鸞会講師の仕事である」と、なっているので、講師部員がそれぞれの担当会員に、直接的に間接的に高森会長への帰命あるいは服従を先導している形になっています。決して、講師部員が「勝手に」やっていることではありません。高森会長の指示で動いているのです。

具体的には、どのような形で高森会長は、自らの口で会員に対して「自分に帰命せよ」といわずに、会員に「高森会長帰命」の形にもっていっているのかを例示します。それは前回紹介した親鸞会に向けて過去書かれた批判論文にありますので、そこから一部引用します。

谷口春子女史の『絶対の幸福』上・下二巻は、親鸞会において、宗教体験の書として、或は親鸞会的人間像の書物として極めて重要な地位を占めていることは、先の高森氏の「春子さんが真似たのか私が春子さんの真似をしたのか」の発言においても明瞭である。親鸞会において高森氏が教学面を担当するなら、谷口女史はその実践の指導者的存在であるといってもよく、両者は車の両輪的関係であると見ても過失ではあるまい。その女史をして、高森氏自身を「尊き善知識会長先生[11]」とか、「生き仏様会長先生」とかいわしめて、自分は女史の著書を全面的に支持すると公表するのであるから、実に巧妙な方法で結論的には、高森氏自身が善知識であることを是認しているのである。よって、この結論が実は親鸞会の思想の出発点であるともいい得るのである。(現代における異義の研究(一) 特に「浄土真宗親鸞会」について - 本願力回向)

高森会長自らが、「この人は妙好人である」と認めた谷口春子さんに「生き仏会長先生」と言わせることによって、結果的に「私は生き仏ですよ、善知識ですよ」と会員に言っているという巧妙なやり方です。

この方法は、現在でも顕正新聞、顕真といった親鸞会機関誌に「法友通信」の形で続けられています。その内容は、ほぼ共通して「今回の高森会長の話はたいへん素晴らしかった。」「これを説くことができるのは高森会長しかいない」「多生にも会いがたい先生にあわせて貰っている自分は幸せだ」といったような、会長礼讃文章であふれています。

そのもとになっている会員から高森会長への「お礼状」は、高森会長が会員に書かせているものです。そして、その「お礼状」の中から、機関誌に掲載するための手紙を選んでいるのも会長自身です。その判断基準は、「高森会長を絶賛しているか否か」「本願寺と比較して高森会長を褒め称えているか」「高森会長について行きますと書いているかどうか」などです。

頻繁に「法友通信」に、自分の手紙が掲載されていた人が、以前言っていたとは「法友通信に載るにはコツがあるんですよ」でした。
何でも前述したようなポイントを抑えると、かなり高い確率で機関誌に掲載されたとのことでした。高森会長が、何のために、機関誌のかなりの誌面をさいて「法友通信」という名の、会長礼讃記事を書かせているのかといえば、会員に「会長がいかにすばらしい人間であり、教学的に間違いない人であり、生き仏で有り、絶対についていかねばならない人間である」と思わせるためです。

その証拠に機関誌は、最後必ず高森会長の目を通ってでなければ、会員に配布することはできません。毎回毎回、どれだけ自分を絶賛しているかを確認してから機関誌を発行しているのですから、これが会長の意図的な仕事でないとは絶対にいえません。逆に、大変に熱心に、時間をかけて会員にむけて「善知識頼み」を強要しているのです。

決して、まわりが勝手に思ったということではありません。仮に、まわりが善知識だのみに陥っている状況をみて、訂正しないのは、「黙認」という名の肯定です。高森会長は、「如何に自分の口から言わずに、まわりに自分を善知識と思わせるか」に、日夜腐心しているのですから、質問された会員の方が、そう思われても不思議はありません。しかし、それこそ高森会長の意図するところであることをよく知って下さい。