親鸞会を脱会した人(したい人)へ

宗教法人浄土真宗親鸞会を脱会した人(したい人)の為に、親鸞会とその教義の問題について書いたブログです。

親鸞会は知識帰命(善知識だのみ)の異安心といわれるのは如何なものでしょうか?(現会員さんからのお尋ね)

私は知識帰命の異安心と言われる親鸞会に納得出来無い部分があります。いろいろ批判は有りますが、高森先生は「ずっと善知識高森先生のお話の前に」と講師部が言って来た事を直されて「善知識」という言葉を外すよう言われたと聞きました。今では高森先生としか言っていないと思います。外した言葉をわざわざ善知識頼みの異安心と言われることは如何なものでしょうか?(現役会員さんからの質問)

確かに以前は、高森顕徹会長の法話の始まる前に「善知識高森先生のお話の前に、一言お願いいたします。」という案内がありました。それをその後、修正して「高森先生のお話の前に〜」と直したのは、単なる本願寺派からの批判を受けて「こりゃまずい」と思って修正したにすぎません。別段「深い御心」があってのことではありません。

実際にどんな批判があったのかについては、以下を参照下さい。
現代における異義の研究(一)特に「浄土真宗親鸞会」について 山田行雄


知識帰命(善知識だのみ)というのは、知識に対する間違った考え方のことです。ですから、法話の前の案内文に「善知識」とつけるか、つけないかという小手先の事ではありません。

事実として、親鸞会は現在でも知識帰命(善知識だのみ)の団体です。その理由は、以下の3つです。

  1. 特定の知識(高森会長)しか、正しく法を説く人はいないと言っている
  2. 特定の知識の指導に従って行けば、救われると思っている。
  3. 知識(高森会長)は、教義的にも(人によっては)人格的にも、間違いのない人間であると思っている。(いわゆる生き仏であるかのように思う)

1.特定の知識(高森会長)しか、正しく法を説く人はいないと言っている

これについては、私が入会した当初によく聞かされたのは「高森先生は蓮如上人以来の500年ぶりの善知識なのだ」とか「今日高森先生以外に、正しく親鸞聖人の教えを説ける人はいない」という言葉に端的にあらわれています。
現在では、「歎異抄をひらくへの反論文が真宗十派から出てこないのは、高森先生の書かれた本にみんな絶句してしまったからだ。だから、高森先生しか、真実の教えを説ける人はいないのだ」と言っています。

仮に、500年に一度しか正しく法義を伝える人がいなかったとしますと、高森会長に法を伝える人はいないことになります。そうなると高森会長は、一体誰から「正しい教え」を聞いたのでしょうか?

こういうと親鸞会では「教行信証が、高森先生の善知識だ」といいます。しかし、高森会長の話が、教行信証を読んで分かっているとはとても思えません。

その一番の表れは、自分を善知識とかつてよばせ、会員に知識帰命を推進していたことからもわかります。

2.特定の知識の指導に従って行けば、救われると思っている。

これについては、現役会員の方に共通する認識ではないかと思います。私も過去にはそんなように考えていました。

善知識とは、二河白道の譬えで言うところの東岸からこの道を行けと推し進める人のことです。喩えて言うと、ドアの前まで案内はしてくれますが、一緒にドアをあけて、中にいる人と一緒にあってくれる人ではありません。親鸞会にいるひとは、高森会長が阿弥陀仏へのドアを開けてくれるように思い、そのドアが随分先にある前提でそこまでついていこうとしています。

お釈迦さまも、親鸞聖人もいわれることはただ一つで、「阿弥陀仏に救われて下さい」です。だから、蓮如上人も「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべしと人を勧むべきばかりなりなり」と善知識について教えておられます。

決して、「俺についてこい、そうしたら救われる」という人では
ありません。

3.知識(高森会長)は、教義的にも(人によっては)人格的にも、間違いのない人間であると思っている。(いわゆる生き仏であるかのように思う)

これについては、現在では法論を申し込まれてひたすら逃げ続けているというのが、その現れです。なぜなら、明確に負けると分かっている法論をさけるのは、「善知識(高森会長)は、少なくとも教義的に間違いない人間だ」ということを、会員にいつもいっているからです。法論をして負けたら、その前提がもろくも崩れてしまいます。

しかし、過去はもっと露骨に高森会長を生き仏としていました。

真剣になってお味わい下さい。宿善を積んで一日も早く大安心の身の上にならせて頂き、生き仏様先生に慶んで頂きましょうね。(絶対の幸臨・下・P74)

これは、親鸞会内で「妙好人」といわれた、谷口春子さんの書簡を書籍にした「絶対の幸福」という本にでています。今現在、親鸞会の法語コーナーにあるかどうかはわかりませんが、外部からの批判をうけて、いろいろ修正したものしか入手できないと思います。

ここで「生き仏様先生」と谷口春子さんが言っているのは、高森会長のことです。
他の所でも、

尊き生き仏会長先生の底知れぬ深き情熱、広大なる真実の仏心を心の奥底より感謝せずには居られません。(絶対の幸福上・P31)

と言っています。

谷口春子さんご自身の信仰面のことは、私も分かりませんが、ただ、手紙に書いていること自体は「知識帰命の異安心」です。真実信心かどうかとは、別の問題として「言っていることは教義的に間違い」ということです。

まとめ

以上のことから、現在の親鸞会は、知識帰命(善知識だのみ)の団体であると言うことを書きました。

しかし、これは、なにも現役会員だけの話ではありません。種々の事情や、経緯によって親鸞会を脱会した人でも、「知識に従えばOK」とか「高森会長は偽の善知識だったけど、真の善知識にしたがえばOK」とか、「今度こそ間違いのない先生です、この先生の話を聞いたら救われると思います」と言っているのは、親鸞会会員と何も変わりません。

助けるのは阿弥陀仏であって、善知識ではありません。
善知識は、月を指さす指であっても、月ではないというのが親鸞聖人の教えです。救われるのは100%阿弥陀仏のお力です。それに対して、知識の力も10%、または20%あるのではないかと思えば、それは知識帰命だと思われたらいいと思います。

確かに、法を説く人にもいろいろとあるには違い有りません。しかし、特定の知識しか法を説けないという考え方は、本願力回向の宗教を間違って捉えることになってしまいます。